新庄剛志
- 誕生日:
- 1972年1月28日
- 星座:
- みずがめ座
新庄剛志のプロフィール
新庄剛志(しんじょう・つよし)
生年月日:1972年1月28日
長崎県対馬市(旧:下県郡美津島町)生まれ、福岡県福岡市南区育ちの野球選手(外野手、内野手・右投右打)、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家、YouTuberなど)、地方競馬全国協会(NAR)の馬主。元妻はタレントの大河内志保。紺綬褒章受章(2007年)。
◆概要
プロ野球選手として阪神タイガース、北海道日本ハムファイターズに所属した他、MLBのニューヨーク・メッツなどでもプレイした元メジャーリーガーでもある。現役時代は意外性あふれる打撃と強肩を生かした守備で、規格外の人気を獲得した。阪神時代の1993年に記録した21歳8ヶ月での先発4番出場は球団の歴代最年少記録(2019年シーズン終了時点)。2001年に日本人野手初のメジャーリーガーとなり、2002年には日本人選手として初めてワールドシリーズ出場を果たした。2006年限りで現役を引退していたが、2019年11月27日付でNPBより自由契約選手として公示された。
愛称は「プリンス」「ツーさん」など。また、印象的なプレースタイルや言動、立ち居振る舞いから「記録より記憶に残る選手」とも称される。日本ハム時代は登録名を「SHINJO」としていた。表記法をイニシャル以外でのアルファベットとするのはNPB史上初であった。
2001年より2009年まで個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し、所属期間の途中よりは事務所とアワーソングスクリエイティブが業務提携してのタレント活動等のマネジメントを受けた。2008年に株式会社レハサフを設立して、2013年の会社閉鎖まで経営した。タレント活動等のマネジメントを自社から受けていた期間を経て、以降のマネジメント契約先は、2012年はプラファー、2013年よりエージェントオフィスタクト、2018年よりZE MANAGEMENT。2010年ごろにインドネシア・バリ島へ移住した。
◆経歴
・阪神時代
1年目の1990年は二軍で過ごし、腰痛の影響もあり出場36試合・打率.074(安打2)・本塁打および打点なし。守備は中堅手から、シーズン中に自らコンバートを志願して内野の遊撃手へ転向した。9月から11月にはフロリダ州レイクランドでの秋季教育リーグへ派遣された。
1991年も秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍規定打席に到達して打率.246・本塁打9・打点39を記録した。そして一軍監督の中村勝広ら首脳陣により見いだされ、9月9日に初の一軍昇格。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場を果たし、香田勲男から初打席初安打初打点を記録した。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初先発出場を果たした。
◆メッツ時代
MLB1年目は自身の意向で単身渡米し、2年目より夫人も居を移した。代理人をMLBでの3年間、マイク・ニコテラおよびその同僚のジーン・カザレッジョが務めた。通訳を2001年は球団職員・岩本賢一が、2002年より球団職員・小島克典(2003年は新庄と共に移籍)が務めた。また2001年より現役引退まで数人のトレーナーと専属契約を結んでいた。
2001年のスプリングトレーニングでの新庄を取材する日本人メディアの多さや新庄の話題性の高さについて、ニューヨーク・タイムズが「ジェームズ・ディーンがきた」と表現して報じた。オープン戦での成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞を受賞して開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。シーズン序盤は途中出場も目立つが実績に伴ってレギュラーとなっていき、打順は7番・6番・1番・3番・4番など様々となった。MLBでの守備は外野の全てへ毎年就くが、この年のみ中堅メインではなく両翼へも万遍なく就いた。4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス、ターナー・フィールド)8回表の代走としてMLB初出場。一塁走者としては珍しい外野への飛球の時のタッグアップで二塁へ進塁し(右中間のウォーニングトラック手前への飛球をアンドリュー・ジョーンズ中堅手が捕球後)、10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグ(英語版)から初安打を記録した。5日の同対戦で7番・右翼手として初先発出場。9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)でジェイソン・マーキーから初本塁打を放ち、チームメイトが整列しての日本式の出迎えを受けた。この初本塁打を機に、メディアが新庄の姓を文字った造語である「SHINJOY(シンジョイ)」を使い始め、以降これは愛称として浸透していった。27日にアジア人初の死球での出塁を記録した。5月24日のフロリダ・マーリンズ戦の大差リード中 (11-3) の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされ、翌日の同対戦で足に死球を受けた。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた、本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる行為(後述)や、その後ホームイン時に手で触塁する行為(後述)が相手チームから挑発的と解釈されたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑(後述)をかけられたりもした。
左太股の故障をおしての出場を続ける中、6月17日のニューヨーク・ヤンキース戦(シェイ・スタジアム)2点を追い掛ける8回裏一死一三塁の攻撃で二塁ゴロを放ち、全力疾走して一塁へ足から滑り込んで併殺は阻止した(打点1)。その後に次打者マイク・ピアッツァの逆転決勝2点本塁打が出て、この試合はサブウェイシリーズ屈指の名試合と称され、新庄の故障をおしての走塁は「カミカゼ・スプリント」と称されて報じられた。しかし代走を送られこの走塁が最後のプレーとなり、20日より左太股裏(大腿四頭筋)肉離れで15日間の故障者リスト(期間は延長できる制度)に入った。その後A-級・ブルックリン・サイクロンズでの調整出場2試合を経て7月16日より復帰した。22日、フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏一死一塁の中堅守備で、直射日光を受ける中、トラビス・リーのバックスクリーン方向への大飛球を背走して追い続けた末にフェンス手前で振り向くことなくポケットキャッチ(背面キャッチ)。このプレーは、ウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」を彷彿とさせると報じられた。ボビー・バレンタイン監督などからクラッチヒッターとの評価を受け打順3番で起用されることが多くなり、9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献した。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12(リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手歴代最多〈当時〉)。打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達(MLBでの3年間は毎年が未到達)ながら、満塁時に打率.583(12打数7安打)・打点17を記録し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。Topps ルーキーオールスターチーム(英語版)などを受賞した。翌2002年の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で当時約1億3500万円と自身初めて1億円を超えた。プライベートでは日本メガネベストドレッサー賞とベストドレッサー賞を受賞。
・ジャイアンツ時代
2001年12月16日、デシー・レラフォード(英語版)内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレードで移籍した。背番号は引き続き「5」。
2002年は球団が獲得に際し想定していた通り、監督のダスティ・ベイカーより1番中堅で起用され開幕。1番打者ということで基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け、4月下旬に打撃不振で打順降格してから7月下旬の離脱(後述)までは7番など主に下位に入った。5月11日、モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて すぐさま本塁まで約90メートルをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリー(英語版)を補殺した。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入した。試合はそのまま勝利し「新庄の肩が試合をセーブした」などと報じられ、相手監督のフランク・ロビンソンもこのプレーを賞賛した。7月、オールスターゲーム・ファン投票で100万票以上を得てナ・リーグ外野手部門第4位となった。25日の出場を最後に右太股(ハムストリング)を痛め15日間の故障者リストに入った。その後AAA級・フレズノ・グリズリーズでの調整出場2試合を経て8月13日に復帰出場するが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失った。復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃のほとんどの部門において前年より成績を下げた。守備ではリーグ外野手および中堅手のレンジファクター (RF/9) 1位を記録。シーズン最終戦の1試合前に決めたチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身NPB/MLB通じて初のポストシーズン出場(チャンピオンシップシリーズ)およびリーグ優勝を果たした。
・メッツ復帰
2003年1月11日に古巣のニューヨーク・メッツと年俸60万ドル(日本円換算で当時約6000万円)で契約した。背番号は引き続き「5」。ジャイアンツ退団後にMLB/NPBの数球団より届いた契約オファーの中から在籍経験を活かせるよう古巣であり、また好きな都市の球団であるメッツを選んだという。
オープン戦で50打席以上のナ・リーグ選手としての最高打率.426を残すも[、シーズンでは最終的に現役引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり、主に相手先発が左投手時の先発中堅手としての起用で出場試合は減少した。5月8日、シェイ・スタジアムでのロサンゼルス・ドジャース戦でNPB/MLB通算100補殺(外野守備機会)を達成。23日のターナー・フィールドでのブレーブス戦では外野手としてキャリア唯一となる、勝利を決める最後のアウトの補殺を記録(中堅からの本塁直接送球で同点の走者を刺した)。打撃成績は5月にこれまでの自身ワーストとなる24打席連続無安打を記録するなど次第に低迷していき、6月28日のヤンキース戦デイナイトダブルヘッダー第1試合(ヤンキー・スタジアム)終了後に、MLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした(最終出場は前日27日の同球場での同対戦)。その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」と語った。この年はスプリングトレーニングで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報じられた。7月17日にロースター40人枠から外れDFAとなり、後日にメッツとマイナー契約を締結。AAA級・ノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率.324(111打数)・本塁打3・打点9を記録。マイナー生活では様々なメジャーとの条件格差を体験するが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流などもあり、これまでの野球人生で一番に学べ、楽しい時代であったと語っている。オフにノンテンダーFAとなり、MLB/NPBの数球団より契約オファーを受けた。なお自身は渡米する2001年シーズン前には、MLB移籍は3年間と示唆していた。
・日本ハム時代
移籍先はNPBの翌シーズンより北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、契約金4000万円・年俸8000万円プラス出来高払い5000万円の2年契約(金額は推定、補殺数の出来高払いもあり)を結んだ。最初にオファーを受けた球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。他にオファーを受けたNPBの球団は千葉ロッテマリーンズであった。また非公式ながら最初に獲得を打診してきた球団は巨人であるという(引退後に告白)。古巣の阪神は外野手層が厚くなった事情からオファーを出さなかった。入団発表予定の前日となる11月19日、映画『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会にて、非公式に入団を発表した。翌20日の仮契約の席にてサインする様子が新庄の希望で後にテレビ放送された。仮契約後の入団公式発表会見では、北海道などのファンが自身の入団を求める署名を紹介した。12月3日に新本拠地・札幌ドームで行われた入団発表(正式契約後)の会見は、当初非公開の予定が約2000人のファンが来場したため、急遽グラウンドにて一般公開された[149]。会見では「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げた。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、自身の専属広報に荒井修光が就任した(現役引退まで在任)。また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営の鍼灸院スタッフが務めた。
入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名(一覧〈外部リンク〉)を始めたほか、翌年にかけて試合前シートノックにて かぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5度行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残した。
2004年は開幕から7月まで主に2番中堅で、8月早々に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフまでビッグバン打線の1番で起用された。3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの大阪近鉄バファローズ戦で吉田豊彦から、北海道日本ハムとしての球団第1号本塁打を記録。5月30日、函館オーシャンスタジアムでの西武ライオンズ戦で張誌家からNPB通算1000安打を達成。
◆現役引退後
現役引退後はタレントへ転身。またエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作およびメイクアップ)と、2011年より2016年ごろまではモトクロス競技の練習にも取り組む。
2007年1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告した。3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。4月25日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受章。12月28日、夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表した。離婚の際に「俺も意味分からないけれど、とにかく離婚したい」と妻に説明したといい、後に2020年4月16日放送分の『直撃!シンソウ坂上SP』でこの離婚劇が取り上げられた際には司会の坂上忍が「普通だった訴えられますよ」と呆れていた。
・会社設立
2008年1月28日、新庄剛志が株式会社レハサフを設立して取締役に就任した。業務内容はアスリート・アーティスト等のマネジメントや、コスメティック・アパレルグッズの企画・販売など。自身の公式サイトを自社のものと共同として、名称「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」へ変更した(2013年に自社を閉鎖するが、以降も個人の公式サイトとして存続)。自社は5月より元同僚・森本稀哲とマネジメント契約を結んでいた期間がある。5月18日、福岡 Yahoo! JAPANドームでのソフトバンク対日本ハム戦の始球式投手として、余興ながら森本と1打席の真剣勝負を行った。11月23日、札幌ドームでの日本ハムのファンフェスティバルにて特設スペース「SHINJOコーナー with ひちょ」が設置され、自身プロデュースの自社商品および森本のプロデュース商品などが販売された。28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌年の自身の活動予定(自社商品の開発・俳優・歌手・地方競馬の馬主〈後述〉・画家)を発表した。
この頃、絵画制作モデルとして購入する馬が地方競馬の競走馬となる予定であることから、地方競馬全国協会 (NAR) の馬主資格を取得していた。同馬はタノシンジョイ号と命名され、2009年9月の初出走で勝利を挙げた(翌年には中央競馬へも一度出走)。また翌年公開予定の映画『僕たちのプレイボール』の製作総指揮(エグゼクティブ・プロデューサー)を務めた。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に、付き添ってグラウンドへ登場し、その後の同試合テレビ中継にて自身初の野球解説を担当した。
・バリ島移住
2010年前半を最後にメディア出演がなくなり、この頃よりインドネシア・バリ島へ移住した。当地への移住を決めるきっかけはCM撮影での訪島であった。モトクロス競技の練習は当地を拠点として行っていた。また当地では日本で始めた絵画制作に加え、当地の子供達への簡単な野球指導も行っている。
2011年8月初旬、自身の父親の通夜・告別式にてメディアに映った。9月8日放送のTBS『世界の強運実話!もってる人グランプリ』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演し、以降も仕事などの度に日本へ帰国している。10月、球団買収される予定の横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の買収企業がDeNAとなる場合の、次期監督の最有力候補に挙がっていると『サンケイスポーツ』が23日より複数回に渡り報じるも実現しなかった。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。
2012年11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)では試合には参加しなかったが、試合のダイジェスト番組の企画で松村邦洋らがバリ島の自宅およびモトクロス場を訪れた時に収録した、新庄からのビデオメッセージが試合のイニング間に大型ビジョンで放映された。
現役復帰宣言
2019年11月13日、自身のインスタグラムに動画を投稿し、翌年のトライアウトを受験し現役復帰を目指すためトレーニングを始めると発表した。清原和博が「WorldTryout2019」の監督に就任したことで刺激を受けたとしており、動画では「みんな、夢はあるかい?1%の可能性があれば、必ずできる。きょうからトレーニングを始めて、もう一回、プロ野球選手になろうと思います。みんなも何か挑戦しようぜ」と語りかけた。同月18日には日本に帰国したことを自身のインスタグラムで報告した。その後、2019年11月27日付で任意引退選手公示が抹消され、自由契約選手公示された。
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