長友佑都のプロフィール
長友 佑都(ながとも ゆうと)
1986年9月12日
愛媛県出身のプロサッカー選手
セリエA・インテルナツィオナーレ・ミラノ所属
ポジションはディフェンダー(サイドバック)及びミッドフィールダー(サイドハーフ、ウイングバック)
日本代表
来歴
生い立ち
スポーツ一家の第二子として生まれ、母方の祖父は第1回小倉競輪出走者である元競輪選手の吉田達雄。達雄の弟で同じく元競輪選手の吉田実は大叔父にあたる。父方の祖父は明治大学出身の元ラガーマン。
小学校1年生時にサッカーを始め、6年時に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも不合格。西条市立北中学校在学時に恩師である井上博に出会い、この時期の走り込みにより現在の豊富な運動量のベースが作られた。2001年のU-15全日本ユース選手権では県3位の成績を残した。
2002年、サッカーの強豪東福岡高校に進学。森重潤也の下で2年生時に1ボランチとしてレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学政治経済学部[21][22]には指定校推薦で入学した。高校時代の同級生には近藤徹志、ラグビー日本代表の豊田将万などがいる。
明治大学時代
2005年、明治大学サッカー部入部。神川明彦監督によって右サイドバックへコンバートされた。神川は長友を右サイドバックにコンバートした理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語る。このポジションでのプレーをものにしつつあった矢先、入部早々に発症した椎間板ヘルニアを再発。試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。この時期、サッカーができないストレスでパチンコなどの遊興に溺れたことがあったが、実姉や大学の同窓生の叱咤激励で乗り越えることができたと語っている。
2006年8月にかけて復帰し、後期リーグの開幕戦で入部以来初の先発出場。椎間板安定の為に腰周りの体幹筋を鍛えたことも奏功し、復帰後3試合ほどで神川が「別格」と評するほどのプレーを見せるようになった。身体能力の強さから3バックで臨む際にはセンターバックを務めたこともあった。ここから急速に頭角を現し、全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出された。同学年には藤田優人、林陵平、橋本晃司らがいた。
2007年3月に行われたFC東京との練習試合におけるFWリチェーリとのマッチアップが当時の原博実監督など東京関係者の関心を引き、5月から特別指定選手としてFC東京の練習に参加。7月8日のナビスコカップ準々決勝の対横浜FM戦で途中起用され公式戦デビュー。さらにU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選のマレーシア戦に選出。右ウイングバックで出場し、ダイビングヘッドでの先制点に加えてPKを獲得するなどの活躍を見せた。
FC東京時代
大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に在学したままサッカー部を退部してFC東京と正式契約を結んだ。神川は長友を2008年度のサッカー部副将に据えるつもりでいたが、長友の強い決意に触れてこれを撤回。サッカー部を1年残して退部しFC東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一人で自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」ことを挙げている。3月8日、リーグ開幕戦の神戸戦から、前年までレギュラーだった金沢浄らを押しのけて先発出場を果たす。5月3日、第10節大宮戦でJリーグ初得点を決めた。東京加入後の主ポジションは左サイドバックであったが、同年後半、当時の監督城福浩は、東京のその時点でのチーム状況や対戦相手の選手の特長によって、右サイドバックを主としていた徳永悠平と長友を左右入れ替えて起用した。
5月18日には岡田武史監督率いる日本代表に初招集され、5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初出場を記録。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初得点を記録した。また、同年の北京オリンピック日本代表に選出され本大会にも出場したが、チームはグループリーグ3戦全敗に終わり、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と語っている。
2009年からは土斐﨑浩一フィジカルコーチとともにアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手。運動量と、強靭なフィジカルを活かしたスピード感のあるプレーに磨きをかけた。同年12月に日本代表の特別講師を務めた川本和久からは、代表選手の中で唯一長友だけが「文句なし」のランニングフォームであると評価された。同年後半からは攻撃の駒としてサイドハーフに上がり、サイドバックには椋原健太らが投入されるという起用法も見られ、東京のナビスコカップ優勝に貢献するなど、ユーティリティー性を発揮し、この年のJリーグベストイレブンにも選出された。
2010年に開催された南アフリカワールドカップでは、全4試合に左サイドバックでフル出場を果たした。グループリーグ第1戦のカメルーン戦では後にチームメイトとなるサミュエル・エトオを徹底マークし完封、第2戦のオランダ戦においては途中出場したエルイェロ・エリアのポジションに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなどエースキラーとして活躍し、日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。同大会から国際サッカー連盟(FIFA)が導入したレーザー計測によると、長友のトップスピードは第1戦(カメルーン)では時速30.13キロメートル(km)、第2戦(オランダ)では同26.70kmと、両試合共に対戦相手を含めて最速を記録した。また、この活躍により地元の愛媛県から愛媛県文化・スポーツ賞を授与された。
7月14日、ワールドカップでの活躍が評価され、セリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍が決定。退団セレモニーの際は「みなさんと別れるつもりはありません。世界一のサイドバックになって、また青赤のユニホームを着たいです」と涙ながらに語り、東京サポーターから拍手でイタリアに送り出された。
ACチェゼーナ時代
チェゼーナ時代
チェゼーナでは自ら希望した背番号5番を譲り受け、左サイドバックとして開幕戦(対ローマ戦)からフル出場。マッシモ・フィッカデンティ監督からは「長友は左右どちらもいいが、ポゼッションとビジョンの点では左の方がいい」と評され、試合に応じ両サイドで起用(試合展開によっては前線に入る)され、11月21日の第13節パレルモ戦ではチェゼーナ加入以来初となるアシストを決めた。その後、12月18日の第17節カリアリ戦までフィールドプレーヤーではチーム唯一の全試合フル出場を続け、ロレンツォ・ミノッティ強化部長からは「(長友は)とてもいいプレーをキープしており、人間的にも素晴らしくロッカールームを団結させる存在」と高く評価された。また、本人もセリエAでの経験から、トップレベルの相手に対する間合いの取り方を体得し、走力、フィジカルの更なる向上の手応えを掴んだと語っている。
2011年に開催されたアジアカップでは全6試合にフル出場(日本代表では長友と今野泰幸のみ)し、決勝のオーストラリア戦では試合途中に左サイドバックから左サイドハーフにポジションを上げて、李忠成の決勝点をアシストするなど日本代表のアジア制覇に貢献した。
インテル・ミラノ時代
2011年1月31日、移籍金約2億円でチェゼーナへ完全移籍し、さらに冬の移籍市場の最終日となった同日、ダビデ・サントンとのトレードで、インテルへのシーズン終了までのレンタルが決定した。背番号は55番。2月6日、セリエA第24節ローマ戦でインテルでのデビューを飾り、3月6日の第28節ジェノア戦にてセリエA初得点を決めた。3月15日、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝トーナメント1回戦2ndレグのバイエルン・ミュンヘン戦では、途中出場で日本人4人目となるCL決勝トーナメント出場を果たし、アウェーでの勝利に貢献。準々決勝では内田篤人が所属するシャルケ04との対戦となり、CL初の日本人対決を演じ、2ndレグでは両チーム最長の走行距離を記録し、地元紙から高評価を得たものの、チームはここで敗退。5月22日のリーグ最終節カターニア戦ではリーグ戦2得点目を挙げた。5月29日、シーズン最終戦となったコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦では右SBとしてフル出場し、イタリアでの初タイトルを手にした。
2011-12シーズンの始動日となった7月1日、5年契約でインテルへの完全移籍が発表された。12月10日の第15節フィオレンティーナ戦と、12月13日の第11節(悪天候による延期開催)ジェノア戦で自身初の2試合連続ゴールを挙げ、12月21日のレッチェ戦では2アシストの活躍を見せた。2011-12シーズンのインテルは不振により、2度の監督交代があり、交代当初は起用されないこともあったが、最終的にレギュラーの座を確保した。
2012年10月7日のセリエA第7節ACミランとのミラノダービーで2枚のイエローカードを受け、自身初の退場処分となった。12月9日に行われたセリエA第16節ナポリ戦でイタリアでの公式戦100試合出場を果たした。2013年2月25日、第26節のミラノダービーで同点ゴールをアシストするも直後に左膝を負傷し途中退場。以後、出場から遠ざかり4月14日の第32節カリアリ戦で復帰するも左膝痛を再発しわずか8分で負傷退場となってしまった。後日、左膝半月板損傷と診断され手術が必要とされたが、保存療法を選択することで手術を回避し、シーズン終盤に復帰を果たした。
2013年8月27日の2013-14シーズンのセリエA開幕戦ジェノア戦では1年8ヶ月ぶりの得点を挙げ、第2節のカターニャ戦でもヘディングシュートを決め、2試合連続ゴール。得点に絡むべく、ゴール前に走り込むプレーを繰り返した。同年12月22日のミラン戦において、後半に交代でピッチを去るエステバン・カンビアッソからキャプテンマークを受け継ぎ、移籍4シーズン目にして初めてゲームキャプテンを任された。この年、アジアサッカー連盟から国際最優秀選手賞に選出された。2013-14シーズンはシーズン通して大きな怪我もなく、最終的に自己最多の5得点6アシストを記録するなど攻撃面でも大きな向上を見せたが、チームは2年連続でCL出場権を逃した。
2014年6月に開催されたFIFAワールドカップではグループリーグ全試合にフル出場。第1戦コートジボワール戦では本田圭佑の先制ゴールをアシストしたが、自身の背後のスペースを狙われて左サイドで数的不利の状況を作られ連続失点。走行距離では3試合で、スプリント数及び最高時速では2試合で両チームトップの記録を残すなど死力を尽くしたが、2戦目・3戦目での攻撃参加は得点に結びつかずグループリーグ敗退に終わった。
2014-2015シーズン、インテルの副主将に就任。2015年1月開催のAFCアジアカップでは準々決勝UAE戦で右太もも肉離れを起こし、日本代表もここで敗退[85][86]。同大会後、初の先発出場となった同年2月のパレルモ戦でも右太ももを痛め、長期離脱。これが、長友にとってシーズン4度目の故障となった。5月のラツィオ戦から戦列復帰。
2015-2016シーズン当初は、サイドバックの補強が進められたために長友は余剰人員となりサイドバックでのポジション争いにすら参加できず一時は売却対象となった。イタリア国内外から複数のオファーが寄せられたが、インテル残留を希望し移籍を拒否。残留は叶ったものの、途中出場した第2節カルピ戦で失点に絡むミスをしたことも重なり苦しい立場は続き第3節から第8節までは出場機会なし。しかし、放出確実と目される中でもコンディション作りを怠ることなく、約2ヶ月ぶりの出場、シーズン初先発となった第9節パレルモ戦では気持ちの入ったプレーで好アピール。第11節ローマ戦でも守備に冴えを見せ、復権に成功した。クラブからは契約の更新を打診され、2016年4月に2019年6月末までの契約延長を発表。
プレースタイル
豊富な運動量と抜群のスピードが武器のサイドバック。俊敏性に優れ、1対1に強く上背はないが、大型FWにも競り負けないフィジカルと身体能力の高さを併せ持つ。
イタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』では長友について「インテルに欠けていた闘争心に飢えている象徴的存在」と評している。
エピソード
2009年2月19日に宮崎県都城市で行われたKリーグの城南一和との練習試合で、相次いだ相手のラフプレーに対して激怒した。韓国選手が自身の味方へ強烈な肘打ちやゴール前での小突きなどラフプレーを繰り返すことに対して3度も「話にならない」と言って試合中に普段は見せない怒りで顔を紅潮させた。
明治大学在学中に教職課程にも通った。卒業論文のテーマは「イギリス文化研究」。
幼少期に和太鼓を習っていた経験から、明治大学で負傷欠場していた際は出場選手を太鼓で応援。そのリズムはスタンドの話題となり、鹿島アントラーズのサポーター集団IN.FIGHTから勧誘を受けるほどだった。
U-22代表に選考されたきっかけは、2007年1月初旬に明大の神川監督が同大の1年後輩であり当時U-22代表のコーチを務めていた江尻篤彦に「どうしても見て欲しい選手がいるので、だまされたと思って一度(長友の)プレーを見に来て欲しい」と連絡し、総理大臣杯準々決勝を江尻が視察に訪れたことがきっかけとなった。神川は「(後輩の)江尻がコーチでなければ電話はできなかった。直接話せる人がそういう立場にいることはなかなかないし、運命だった」と語っている。
2010年2月、FC東京がキャンプ地としている宮崎県都城市の特派大使に任命された。同市は、父方の祖父の出身地でもあり、名前の「佑都」もここから付けられた。5月には、既にFC東京選手会および城福監督が口蹄疫被害への義援金を同市に提供していたが、個人としても義援金を提供。
地元愛媛県の久万高原天体観測館職員中村彰正は、自ら発見した小惑星(登録番号158241)に『Yutonagatomo』と命名している。
インテル入団に際し、長友はイタリア語で書かれた契約書を読めず交渉が難航していた。困ったレオナルドは日本に国際電話をかけ、親交のあった鈴木国弘(ジーコJAPAN通訳)に通訳を依頼。レオナルドがイタリア語からポルトガル語へ、鈴木がポルトガル語から日本語へ翻訳し、長友に伝えられ無事に契約書へサインした。
セリエA初得点を決めたときにハビエル・サネッティと披露したお辞儀のパフォーマンスは地元紙で大きく報じられた。このお辞儀は元々、長友がインテルの練習で行っているもので、いまでは長友がお辞儀をすると観客もお辞儀を返すほど有名になった。当初はゴールパフォーマンスだったが、「お辞儀」が広く認知されたことでアシストなど長友が活躍した場合にも、選手たちが輪になってお辞儀をする光景が見られる。また若手選手の下部組織であるプリマヴェーラでも、ゴールの後にお辞儀を行う場合がある。
インテル移籍後の2011年4月30日、アウェーのチェゼーナ戦では、チェゼーナに在籍していたシーズン前半で16試合にフル出場しチームに多大な貢献を与えたという理由で、試合前にチェゼーナのマンチーニ副会長から特別表彰のトロフィーが贈られた。また2011年12月18日のアウェー戦でも試合開始前にチェゼーナサポーターから「ユウト」コールが上がり長友もこれにお辞儀で応えるなど、わずか半年間の在籍にもかかわらずチェゼーナとはクラブ、サポーター共に非常に良好な関係を保っている。
インテル在籍時のチームメートだったヴェスレイ・スナイデルとは公私共に仲が良く、スナイデルが自宅に招いた長友とチャンピオンズリーグを一緒にテレビ観戦する様子をtwitterに投稿して話題となった。またキャプテンのサネッティは長友について「ユウトはたまたまインテルでポジションを手に入れたわけではない」とサッカー選手として評価しながらも、「時々、動くクマのぬいぐるみじゃないかと思っちゃうんだ。かわいすぎるよ!あんなにチームのフィーリングとマッチする選手って、滅多に居ないんじゃないかな。だからみんなから好かれてるんだよ」と語っている。
アントニオ・カッサーノはインテルに移籍した際の記者会見で、以前から顔見知りだった長友の名前を挙げ「オレがインテルに来たのは、長友のためってのもあるんだ」「ユウトはすでにオレの愛弟子になってるのさ」と発言し、会場の記者たちの笑いを誘った。その後、練習やプライベートでの親密ぶりはもとより、試合でも攻撃で抜群のコンビネーションを見せた。両者の関係はカッサーノがインテルを去ってからも良好で、頻繁に電話やメールのやりとりを続けている。
インテルの会長マッシモ・モラッティはチームで最もフレンドリーな選手に長友を挙げ、「チームのマスコットとなり、 震災の影響を感じさせず明るく振舞っている」と評価している。チームの合宿でも他の選手から「同じ部屋にいると楽しめる」という理由で同室を希望する声が殺到したり、新シーズンに向けたイベントでは5000人のサポーターをチャントで煽り盛り上げるなど、卓越したコミュニケーション能力を見せた。チェゼーナでチームメイトだったジュゼッペ・コルッチは「長友は日本人なんかじゃない。あれはラテンの血が混ざってる。むしろイタリア人だよ」と語っている。コルッチはレッジーナで中村俊輔と、カターニャで森本貴幸と共にプレーした経験があり、「最初は大人しくてまじめな選手なんだろうなって思ってた。いわゆる一般的な日本人像ってやつだ。礼儀正しくて物静か。あまり輪の中に入ってこない、いつもクールな日本人。中村は根っからに真面目だったな。初めて彼の声を聞いたのは半年くらい経ってからだ。森本もそこまで賑やかなタイプじゃない。中田(英寿)もそうなんだろう? でも長友は違う。ロッカールームでふざけあってたし、冗談も言いあってた。最初は言葉も話せなかったのにね。今考えると、それは新たな環境への適応力だったんだと思う」と語っている。
2011年5月にはピッチ内外でエレガンスとフェアプレーを示した選手としてサネッティらと共に「サン・シーロ・ジェントルマン賞」を受賞した。
自身初の著書『日本男児』が、2011年6月6日付のオリコン本ランキングで、スポーツ選手としては初となる売上1位を獲得した。後にイタリア語に訳され『Un ragazzo giapponese』として出版されている。
2011年12月、ESPNSTAR.comが発表した「2011年度世界のディフェンダートップ5」の一人に選ばれた。
2013年6月14日からディズニーXDで、本人をモデルとし、監修したアニメ『ゆうとくんがいく』が放送された。
イタリアのスポーツサイト「sportcafe24.com」が発表した2013-14シーズンにおけるセリエAのベストプレーヤー左サイドバック部門で最優秀プレーヤーに選出された。
2015年4月から自身がオーナーを務める「長友佑都フットボールアカデミー」を開校する。
2016年4月1日、「運動・食事・精神」の事業を柱にした「株式会社Cuore」を設立し代表取締役社長に就任。cuoreはイタリア語で「心」の意。
2016年、リオデジャネイロオリンピック日本代表のオーバーエイジ(OA)候補に挙げられ、自身も出場に意欲的であったが、クラブからの協力が得られなかったことやワールドカップアジア最終予選との兼ね合いにより選外。長友の次善案としてOAには藤春広輝が選ばれた。藤春選出について長友は「(藤春は)攻撃に特徴があるが、守備でも(チームを)引っ張ってほしい」とコメントしている。
2016年12月1日、流行語大賞で交際中の平愛梨に向けた「(僕の)アモーレ」といった言葉がトップテンに受賞された。
所属クラブ
ユース経歴
神拝サッカースクール (西条市立三芳小学校、西条市立神拝小学校)
1999年 - 2001年 西条市立西条北中学校
2002年 - 2004年 東福岡高等学校
2005年 - 2007年 明治大学体育会サッカー部
2007年 日本の旗 FC東京 (特別指定選手)
プロ経歴
2008年 - 2011年1月 日本の旗 FC東京
2010年7月 - 2011年1月 イタリアの旗 ACチェゼーナ (レンタル)
2011年1月 - 同年6月 イタリアの旗 ACチェゼーナ
2011年1月 - 同年6月 イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ (レンタル)
2011年7月 - イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ
個人成績
国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
2006 明治大 12 - - - 1 0 1 0
2007 2 - - 1 0 1 0
2007 FC東京 36 J1 0 0 1 0 - 1 0
2008 5 29 3 3 0 3 0 35 3
2009 31 1 4 1 1 0 36 2
2010 12 1 1 0 - 13 1
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
2010-11 チェゼーナ 5 セリエA 16 0 0 0 - 16 0
インテル 55 13 2 3 0 - 16 2
2011-12 35 2 1 0 - 36 2
2012-13 25 0 2 0 - 27 0
2013-14 34 5 2 0 - 36 5
2014-15 14 0 1 0 - 15 0
2015-16 22 0 4 0 - 26 0
2016-17 -
通算 日本 J1 72 5 9 1 4 0 85 6
日本 他 - - 2 0 2 0
イタリア セリエA 159 9 13 0 - 172 9
総通算 231 14 22 1 6 0 259 15
2007年のナビスコカップは特別指定選手として出場。
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
UEFA UEFA EL UEFA CL
2010-11 インテル 55 - 3 0
2011-12 - 7 0
2012-13 8 2 -
2014-15 2 0 -
2016-17 -
通算 UEFA 10 2 10 0
年度 その他の国際公式戦 出場 得点
2012 UEFA EL 予選 4 1
2013 インターナショナル・チャンピオンズ・カップ 1 0
2014 UEFA EL 予選 1 0
インターナショナル・チャンピオンズ・カップ 3 1
2015 インターナショナル・チャンピオンズ・カップ 2 0
2016 インターナショナル・チャンピオンズ・カップ 3 0
総通算 14 2
出場歴
2007年7月8日:公式戦初出場 - ナビスコカップ準々決勝第1戦 vs横浜F・マリノス (三ツ沢球技場)
2008年3月8日:Jリーグ初出場 - J1第1節 vsヴィッセル神戸 (味の素スタジアム)
2008年5月3日:Jリーグ初得点 - J1第10節 vs大宮アルディージャ (NACK5スタジアム大宮)
2010年8月28日:セリエA初出場 - セリエA第1節 vsASローマ (スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ)
2011年3月6日:セリエA初得点 - セリエA第28節 vsジェノアCFC (スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ)
2011年3月15日:UEFAチャンピオンズリーグ初出場 - 決勝トーナメント1回戦2ndレグ vsバイエルン・ミュンヘン (アリアンツ・アレーナ)
タイトル
クラブ
日本の旗 FC東京
ナビスコカップ:2009年
イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ
コッパ・イタリア:2010-11
代表
AFCアジアカップ:2011年
キリンカップ:2008年、2009年、2011年
個人
アマチュア時代
関東大学サッカーリーグ戦ベストイレブン:2007年
プロ時代
Jリーグ優秀新人賞:2008年
Jリーグ優秀選手賞:2008年、2009年
Jリーグベストイレブン:2009年
AFC年間ベストイレブン:2011年、2012年
AFC年間国際最優秀選手賞:2013年
代表歴
日本代表での長友
2008年5月24日:国際Aマッチ初出場 - キリンカップ vsコートジボワール (豊田スタジアム)
2008年11月13日:国際Aマッチ初得点 - キリンチャレンジカップ vsシリア (ホームズスタジアム神戸)
出場大会
全日本大学選抜
ユニバーシアード日本代表
2007年 - 2007年夏季ユニバーシアード (6位)
U-23日本代表
2007年 - 北京オリンピックサッカーアジア予選
2008年 - 北京オリンピック (グループリーグ敗退)
日本代表
2010 FIFAワールドカップ・アジア予選
キリンカップサッカー2008 (優勝)
アジアカップ2011 予選
キリンカップサッカー2009 (優勝)
東アジアサッカー選手権2010 (3位)
2010 FIFAワールドカップ (ベスト16)
AFCアジアカップ2011 (優勝)
キリンカップサッカー2011 (優勝)
2014 FIFAワールドカップ・アジア予選
FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (グループリーグ敗退)
2014 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
AFCアジアカップ2015 (ベスト8)
2018 FIFAワールドカップ・アジア予選
キリンカップサッカー2016
試合数
国際Aマッチ 91試合 3得点 (2008年 - )
日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
2008 7 1
2009 11 2
2010 16 0
2011 10 0
2012 10 0
2013 12 0
2014 10 0
2015 10 0
2016 5 0
通算 91 3
ゴール
# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2008年11月13日 日本、神戸 シリアの旗 シリア ○3-1 キリンチャレンジカップ2008
2. 2009年10月8日 日本、静岡 香港の旗 香港 ○6-0 アジアカップ2011 予選
書籍
執筆書籍
『日本男児』 ポプラ社、2011年5月。
『日本男児 (文庫版)』 ポプラ社、2013年7月。
『Un ragazzo giapponese』. Add Editore. (2012-04). - 『日本男児』のイタリア語訳版。
『上昇思考 幸せを感じるために大切なこと』 角川書店、2012年5月。
『長友佑都体幹トレーニング20』 ベストセラーズ、2014年3月。
『体幹×チューブトレーニング』 ベストセラーズ、2015年1月。
関連書籍
『Jリーグサッカーキング 2009年8月号"長友佑都完全読本"』 フロムワン、2009年6月。
『突破論』 ベストセラーズ、2010年4月。
伯井寛, 巴康子, 赤澤竜也 『子どもをサッカー選手にするためにできること 日本代表12人の育ったルーツを探る』 PHP研究所、2010年4月。
『長友佑都 100人の証言』 宝島社、2011年6月。
長友りえ 『心は、強くなる ~長友家式 人に愛される子どもに育てる 五感の方程式~』 ワニブックス、2012年1月。
杉澤幹生 『世界で戦える強い「個」を育てる』 日本実業出版社、2012年7月。
DVD
2011年8月『長友佑都 Yuto Nagatomo Challenge』 (ポニーキャニオン)
CM[
日本
ACジャパン (2011年)
カーズ2 (2011年)
大塚製薬『ポカリスエット』 ひたむきな汗 篇 (2011年)、絆 -アスリートから子供たちへ- 篇 (2012年)
ロッテ『ACUO』 キモチつながる 篇 (2011年)
『爽』長友 春篇 (2012年) - ももいろクローバーZと共演
アサヒビール
『アサヒオフ』 オフを楽しもう・長友 篇 (2011年)、走る長友 篇 (2012年) 、「ゼロゼロで登場」(2015年)
マツダ『デミオ』 技術を磨け 篇 (2011年)、チカラを引き出せ 篇 (2011年)
「NAGATOMO MEETS AXELA」(2014年)
スカパー! (2011年)
イタリア
インテル・チャンネル (2011年)
テレビ・ラジオ
スポーツ大陸 (2009年5月31日 - BS1、6月1日 - NHK)
「魂こめて駆け上がれ ~サッカー 長友佑都~」という表題で特集。
とんねるずのみなさんのおかげでした (2010年7月22日 - フジテレビ)
新・食わず嫌い王決定戦に長谷部誠とともに出演。ちなみに嫌いなものはジンギスカンで、長谷部に当てられる(長谷部の嫌いなものはレバニラ炒め)。罰ゲームとして「集まれ~」のオペラ・ヴァージョンを披露した。
アスリートの魂 (2011年5月9日 - NHK)
「世界一のサイドバックに サッカー 長友佑都」という表題で特集。
ゆうとくんがいく! - 監修 長友佑都、ゆうと役 竹内順子、TV及び劇場用アニメ 2014年5月
映画
ユルネバ~キミはひとりじゃない~ (2015年2月一般公開、コラソンエンターテイメント)
PV
Miss Monday 「Run The World -意思あるところに道あり-」 (2011年)
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