齋藤彰俊  撮影/西邑泰和

ノア・齋藤彰俊が現役引退直前に独白「格闘技とプロレスを分けて考えたことはなかった」

2024.11.15 18:42
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11月17日、プロレスラー・齋藤彰俊(59)が現役生活にピリオドを打つ。最初は空手家として異種格闘技戦でプロレス界と交わるようになったが、そこからのレスラー人生はまさに波乱の連続だったといえよう。W★INGでの格闘3兄妹、“虎ハンター”小林邦明との壮絶な喧嘩マッチ、そして三沢光晴との対戦で起きたリング禍──。大会を直前に控えた齋藤がこれまでのキャリアを総括しつつ、熱いメッセージを投げかける!(前中後編の前編)

【1・コソコソ空手道場に通う水泳エリート】 少年時代からトップアスリートとしての片鱗を見せていた齋藤彰俊。一般的には“空手ベースのプロレスラー”と見られることが多いが、最初に頭角を現したのは水泳だった。種目は100mと200mの平泳ぎで、選手として目覚ましい記録を残している。学童新記録でジュニアオリンピック優勝を果たしたことを皮切りに、インターハイ、インカレ、国体、日本選手権などで軒並み優勝。鈴木大地とともにユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなっているのだ。

「もちろん当時はオリンピックを目指していました。(中京)大学も水泳で入ったんですけど、ちょうど自分が卒業する次の年にソウル五輪があったんです。大学4年のときは日本記録を持っている選手に勝って優勝したので、これはいけるんじゃないかと思ったんですけど……ダメでした(苦笑)。肝心のオリンピック選考会で5着になっちゃったんですよ。まぁ残念だけど、勝負の世界だから仕方ないです」

水泳に没頭する一方で、“男として強くありたい”という気持ちも強かったという。『1・2の三四郎』(小林まこと/講談社)、『空手バカ一代』(原作:梶原一騎、著:つのだじろう・影丸譲也/講談社)などを貪るように読み、テレビのプロレス中継に熱狂した。

「空手などの格闘技とプロレスを分けて考えたことはなかったです。あの頃はウィリー・ウィリアムスが出てくるような異種格闘技戦もおこなわれていましたし。とにかく自分としては人間離れした存在に憧れていたんですよ。たとえば『空手バカ一代』にはカンフーの達人がビールジョッキを人差し指と中指で穴開ける場面が出てきますけど、雑誌で読んだ“スラム街で育ったロード・ウォリアーズはネズミを食べて生きていた”というエピソードと自分の中では同一線上にあったんですね。多少の誇張はあるにせよ、“こんなすげぇ奴らがこの世にいるのか”と純粋に信じていました。“ザ・グレート・カブキは顔面にナイフで傷つけられた痕が残っているのでペイントしている”などという話は、どことなくロマンも感じられましたしね」

そして実際に空手を始めたのが高3のとき。ファイターとしては、かなりの遅咲きといえる。水泳選手として将来を嘱望されていたため、空手でケガなどした日には指導者から大目玉を喰らうことはわかっていた。齋藤は隠れキリシタンのようにしてコソコソ空手道場に通い、目立たないように空手の大きな大会には出なかったという。

「入門したのは長谷川道場という極真会館系のところだったんですけど、当時の極真はかなりのスパルタでした。組手するときなんて周りを道場生たちにグルリと囲まれちゃって、後ずさりすると強制的に真ん中に戻されるんです。“やるか、やられるか?”みたいな殺伐とした雰囲気でね。そこから大学入学を機に引っ越したので、一時期は寸止めの伝統派空手をやっていた時期もあるんですけど、1年くらい経ったら今度はフルコンタクトの時代塾というところに身を置くようになりまして。その頃もメインはあくまでも水泳でしたけど」

【2・混乱の中でのプロレスデビュー】ソウル五輪出場は叶わなかったが、指導者になる道は開かれていた。同時期に実業団からも声がかかったが、齋藤は自身で就職活動を始め、愛知県のスポーツ振興事業団に就職することにする。

「公務員としての安定は手に入れたものの、どうにも退屈でしてね。それでプロレスラーになろうと決意したんです。その時点ではどこか団体から誘いがあったわけでもないし、それどころか入門テストを受ける段取りすらわかっていなかったんですけど。なんだろうな、変な自信があったのかな? とにかく“自分の人生は自分で決めたい”という思いが強かったんですよ。いきなり上司に辞表を出して、そこからはアリさんマークの引越社とコメダ珈琲店とバーテンダーのバイトを掛け持ちしつつ、プロレスラーになるチャンスを伺っていた感じです」

きっかけは思いがけないところからやってきた。齋藤とは空手で繋がりがある誠心会館の青柳政司館長が、「’89格闘技の祭典」の異種格闘技戦でプロレスラー・大仁田厚と異種格闘技を行う。同大会は梶原一騎の追悼興行として開催され、齋藤も青柳のセコンドとして会場の後楽園ホールに駆けつけていた。

なお、大仁田はこの大会直後に新団体・FMWを旗揚げ。FMWは“大仁田のデスマッチ路線”と“冬木弘道を中心としたエンタメ路線”のイメージが鮮烈だが、実は黎明期はUWFライクな異種格闘技戦を柱としていた。齋藤もこうした時代のうねりに巻き込まれる格好でマットデビューを果たすことになる。

「FMWの旗揚げ戦は89年10月でした。自分はそこで試合をやったんですけど、これは空手家同士のエキシビジョン。ですから、僕の中ではプロレスデビュー戦という位置づけではないんですね。初めてプロレスの試合を経験したのは翌90年の12月です。今はステーキ屋をやっている同級生の松永光弘が参戦していた関係で、愛知県の半田市というところで開催されたパイオニア戦志の興行で試合を組んでもらったんですよ。ただ自分も相手(金村ゆきひろ=金村キンタロー)もデビュー戦だったし、プロレスの約束事もろくに知らなかったから、軍鶏のケンカみたいになってしまいました。だってロープワークも受け身もわからない状態で、いきなり当日になって“今日こいつとやれ”って言われましたからね。ひたすら殴る・蹴るを繰り返すしかなくて」

令和のプロレスファンからすると、ピンと来ないかもしれない。対戦相手の長所を光らせながら、エンターテインメントとして試合を盛り上げるのがプロの仕事。その中では観客の反応を感じ取って試合に反映させる技量も求められるし、マイクを含めたパフォーマンスや徹底したキャラ作りも重要視される。素人が急に「試合をやれ」と言われても、決して簡単にできるものではないのである。

「そんな感じだから試合は組み立ても何もないんですけど、そのガチガチやっている様子が一部のお客さんからはウケたんですよ。空手の蹴りをおもいっきり入れたら相手は効いていたし、逆に投げられたら相当キツかったし……。余裕がないから、相手をブチのめすことしか考えていなかったです」

さらにここから齋藤のレスラー人生は複雑な道をたどることになる。参戦したパイオニア戦志が、いきなりその日を最後に崩壊してしまうのだ。

「そこからは自主興行っていうんですかね、上がる団体もなかったのでキューティー鈴木さんや尾崎魔弓さんに出てもらったりして名古屋で試合をやっていました。そうこうしているうちにレフェリーのテッド・タナベさんとかウォーリー山口さんから“今度、W★INGという団体ができるらしいぞ”って聞いたんです。それでW★INGは旗揚げ戦から参加したんですよ。それが91年8月だったかな」

格闘3兄弟──。ここで齋藤は柔道の徳田光輝やサブミッションアーツの木村浩一郎とユニットを結成する。ハードコアなデスマッチとシリアスな格闘技路線が混在するW★INGマットはカオスそのものだった。

「なにしろ当初は“世界格闘技連合”W★INGというのが正式名称でしたから。覚えているのは、旗揚げの前に鎌倉で2日くらい合宿をやったんですよ。そこでは技術交流会みたいな感じで、自分もサブミッションを教えてもらいましたね。当時は大迫和義さんという方が社長だったんですけど、“コカ・コーラをスポンサーにして、マイク・タイソンを呼ぶ”って大真面目に語っていました。UWFみたいな方向を目指していたのは間違いないです。ところが蓋を開けてみたら反対側のコーナーにはミスター・ポーゴさんが立っていて、唐突にパイプ椅子で殴られるような世界でしょ? 啞然としますよ」

この時期の齋藤は、空手着のままメキシコ人レスラーからルチャリブレを教わっていたという。こうして徐々にマット界に順応していくのだが、同時にプロレスというジャンルの怖さを思い知ることもあった。

「いまだに忘れられないのは、ジプシー・ジョーから言われた言葉ですね。“軽々しくシュートなんていう言葉を使うな。いいか? この世界でシュートと言ったら、それは殺し合いのことだぞ”って。でも、これは本当に大袈裟じゃないんですよ。ビクター・キニョネス率いるプエルトリコ軍団なんて、ナイフを常に持ち歩くような連中でしたから。プエルトリコでは、例のブルーザー・ブロディの一件(※ブッカーも兼任していたホセ・ゴンザレスに試合会場で刺殺される)もありましたし。“いざとなったら……”という心得的なものは、この時期に叩き込まれたところがあります」

試行錯誤しながらもプロレスラーとして歩み始めた齋藤だが、記事中編では“小林邦明との壮絶な喧嘩マッチ”や“新日電撃引退の真相”についても激白。プロレスという深い沼に飲み込まれながらも、強烈な存在感を放つようになる。(文中敬称略)

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