

ミスターデンジャー松永光弘が師匠・青柳政司を偲ぶ「まだ茫然…本当に大きすぎる存在」
誠心会館の館長を務めていた青柳政司が7月6日に急死し、マット界に大きな衝撃をが走った。今回、『FMWをつくった男たち』(彩図社・刊)の著者であり、元週刊プロレス記者の小島和宏が、青柳政司と師弟関係を結んでいた元プロレスラー、ミスターデンジャーこと松永光弘を直撃。師匠へのあふれんばかりの思い、そしてFMWに参戦した当時の裏話を聞いた。
7月6日、空手家で誠心会館の館長を務めていた青柳政司さんが亡くなった。享年65。突然の訃報にマット界は衝撃に包まれたが、格闘技ファンよりもプロレスファンのほうが青柳館長への思い入れが深い人が多かったはず。
平成元年7月2日、後楽園ホールで開催された『格闘技の祭典‘89』において青柳館長は大仁田厚と異種格闘技戦で激突。日本人同士による異種格闘技戦、しかもプロレスvs空手という形式は当時としては前代未聞であり、多くのファンの注目を集めた。そして、この対戦の流れから、大仁田厚は新団体・FMWを設立。名古屋と後楽園でおこなわれた旗揚げ戦では、大仁田vs青柳の遺恨決着2連戦が敢行され、それまで日本マット界には存在しなかったインディペンデント団体の船出を血戦で染めてみせた。
まさに大仁田厚にとって、青柳館長は「初代ライバル」であり、青柳館長の存在なくして、その後の大ブレイクはあり得なかった、といっても過言ではない。
当時の舞台裏を描いたドキュメント本『FMWをつくった男たち』(彩図社・刊)でも、青柳館長は「FMWをはじめさせてくれた男」として登場するが、文字通り、はじめさせてくれただけで、わずか2試合のみでFMWのリングを去ってしまう。たったそれだけしか参戦していないのに、30年以上が経った今でも語り草になっているのだから、いかに大仁田厚との異種格闘技戦がインパクト絶大な闘いだったのかがわかろうというもの。そして、当時、一緒にFMWに参戦し、その後も行動をともにしたのが誠心会館所属の空手家だった松永光弘だった。
「館長が大仁田さんと闘うとなったとき『東京で山田さんという人に会う』というので私もついていったんですよ。いったい誰だろう、と思っていたら、待ち合わせ場所にいたのがウォーリー山口(当時、プロレスレポーターからレフェリーまでマルチにこなしていた人物)だったんですよ。思わず『館長、この方は山田さんじゃなくて、ピラニアインタビューでおなじみの山口さんですよ!』と指摘してしまいました。
そのときに私がじつはプロレスラー志望だと知った山口さんが『チャンスだよ』と。つまり、これから旗揚げされるFMWのリングになら上がれるよ、というお誘いだったんですよ。それまで新日本、全日本、UWF、ジャパンプロレスに『元気が出るテレビ』のプロレス予備校にまで応募しながら、あと一歩のところでプロレスラーになることができなかった私にとっては『えっ、あれだけ苦労してもなれなかったプロレスラーに、こんなに簡単になることができるのか⁈』という衝撃を受けましたね」
空手家としてFMWのリングに参戦した松永は、日本初の有刺鉄線タッグデスマッチで大仁田厚と対戦(空手家が有刺鉄線デスマッチにリングに上がったのは、おそらく、これが世界初のことである)。このままデスマッチを続けていきたい、と考えていたのだが、青柳館長はすでに剛竜馬率いるパイオニア戦志への移籍を決めており、弟子である松永はその意向に従わざるを得なかった。
「館長は格闘家として大物だったので、ブッキングする側としては難しい部分もあったかもしれませんね。逆に私は無名でギャラも安く済む。だからこそ、日本初の有刺鉄線デスマッチに抜擢されたんだと思います。
本当はあのまま大仁田さんとデスマッチを続けていきたくて、ギリギリまで『FMWに残留したい!』と粘ったんですけどね。『FMWはキックボクサーの上田勝次を使って、俺を潰そうとした。やり返したいから、このまま残ります』とかいろいろ理由をつけて館長を説得したんですけど、やっぱりダメでした。
正直、パイオニア戦志に行ってもうまくいかない、と思っていたんですよ。ギャラは高かったんです。FMWでは1試合2万円だったのが、パイオニア戦志では1試合10万円になりましたから。ただ、2試合ぐらいやったところで『やっぱり違う』となってしまいましたね。じつは館長は同時進行で格闘技路線を推進しようとも考えていて、前田日明さんと闘ったドン・中矢・ニールセン、藤原組長と対戦経験のあるイサマール・チャンガニーらと対戦するプランも水面下で進んでいたんですよ」
だが、結局、パイオニア戦志はあっけなく崩壊。青柳館長は新日本プロレスに参戦し、獣神サンダー・ライガーとの異種格闘技戦で、さらに知名度を上げた。のちに松永も新日本のリングに上がり、シングルマッチで青柳館長を下してみせたのだが、本人曰く『それっきり新日をお払い箱になった』。その後、W★INGに参戦した松永はミスターデンジャーとして過酷なデスマッチ路線を歩むこととなり、リング上での青柳館長との接点はここで一旦、切れることとなる。
しかし、運命の糸とはそう簡単には切れないのである。
1994年、引退を表明していた大仁田の首を狙って青柳館長がFMWに電撃参戦。すでにFMWに移籍を果たしていた松永とリングで再会することとなる。
「ものすごく記憶に残っているのが後楽園ホールでの大仁田、松永組vsミスター・ポーゴ、青柳館長組ですね(1994年8月22日)。このカードが発表されたとき、後楽園のお客さんがものすごく盛り上がったんですよ。客席の下のフロアにある控室にまでうおーっ!という歓声が伝わってきた。それは忘れられないですね。
その直後の大阪城ホールでは大仁田さんと館長が電流爆破デスマッチで闘って、私はセミでポーゴさんと一騎打ち。絶対にメインを食ってやろうと心に決めてリングに上がったので、私の試合が週プロの表紙を飾ったのはうれしかったですね」
FMWの旗揚げ戦を再現した試合を観客の評価で凌駕した。ある意味、これがプロレスラーとして実質的な「師匠超え」になる。そこから、また違う道を歩んでいくことになる師弟だったが、3年前、青柳館長から一本の電話が入った。
「死ぬ前にオマエとトークショーをやりたいんだよ、と。それで同僚だった齋藤彰俊を加えた三人で『誠心会館BIG3 最後の揃い踏み』として開催したんですけど、それが館長と直接会った、最後の機会になってしまいました。本当に最後の揃い踏みになってしまいましたね。今となってはやっておいてよかったです」
その後も連絡は取り合っており、つい最近も「今度、お前に店に行くから」と言われたというが、ついにその約束が果たされる日はやってこなかった。
名古屋で営まれた葬儀にも松永は日帰りの強行軍で参列した。
「正直、まだ茫然としています。ものすごいショックなんですけど、いまだに涙が出てこないんですよ。ただ、あんなに饒舌に、快活に語る人を無言のまま送り出して……あぁ、本当にいなくなってしまったんだな、と。館長がいなかったら、私がプロレスのリングに立つこともなかったかもしれないわけで、本当に大きすぎる存在でした。最後の最後に訃報が東京スポーツの一面を大きく飾れたのは、よかったな、と思います。8月7日にFMWにまつわるトークショーに出演するので、そこで館長の話をいろいろしたいですね」
▽『FMWをつくった男たち』(彩図社)著者・小島和宏価格 1,600円+税
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