タモリのプロフィール
タモリ
1945年8月22日
お笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー、作詞家、作曲家、作家
明石家さんま、ビートたけし(北野武)と共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される
福岡県出身
田辺エージェンシー所属
血液型はO型
妻は2歳年上の一般人で自身の個人事務所の社長を務めている
女優の伊佐山ひろ子とは遠戚
略歴
生い立ち
祖父・父とも満州からの引き揚げ者で、共に南満州鉄道(以下、満鉄)に所属し、祖父は満鉄の駅長、父は満鉄の経理部に勤務した。日本に引き揚げ後は、最初は洋服の卸しをしたが、その後父は三光汽船に勤務した。タモリは太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市、現在の南区に生まれる。乳児時代は「赤ちゃんコンテスト」で優勝した経験を持つ。実姉がいて、いいとも!を観覧に来たことがある。
本人曰く、幼少時代より大人びており、「偽善」という言葉を知っていたと語り、幼稚園入園時期が迫り、園を見に行ったおり「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転しながらお遊戯している園児達を見て、自分には出来ないと入園拒否。小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。また「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかして語ってもいる。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を会長と副会長の2名で設立している。
少年時代
小学校3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2ヶ月休校して治療したものの、視力は戻らなかった。
小学校5年生の頃、予餞会(卒業生を送る会)で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。ラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。
小学生の頃、祖母に「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことをタモリは「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そのため、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作ろうとしたときには、タモリ一人で大体の料理を作ったり、だしの取り方まで全部覚えていたと語っている。
中学時代には、近所にあった平尾バプテスト教会(バプテスト派のキリスト教会)に通ったという。ただし、キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由であり、この経験は、後の年末年始特別番組『笑っていいとも!特大号』(フジテレビ系列)、オープニング時の「タモリ神父の説教」に活かされている。なお、標的になったR.H.カルペッパー宣教師の真似は、当教会関係者から見ても「確かによく似ている」そうである。
船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたとも話している。福岡市立高宮中学校3年間は丸刈り頭であった。部活動は、主に剣道と陸上競技を行っており、陸上部で短距離200mを走っていた。
学生時代
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学。高校時代は、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペット兼司会を担当していた。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場も通い、二段を取得した。ファンだった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。
高校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが「藤村有弘以来」と言われた、「6か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある。
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1年間の浪人生活を送ったのちに、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。
早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でクビ、代わってマネージャー兼司会を担当することになった。タモリはこの時期に付けられたニックネームであり、森田のバンドマン読み(銀座がザギンになるのと同様)。
その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、司会の大橋巨泉からその才能を認められている。
大学2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったため、早稲田大学を去った。3年次に学費未納のため抹籍という処分となった。
福岡時代
大学を抹籍処分になった後もタモリはモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行。かなりの収入を得ていたが、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命で3年近く保険外交員として勤める。この時期に同僚の2歳年上の一般女性と結婚。その後、旅行会社に転職するが、系列のボウリング場(大分県日田市)に転属され、支配人となる。
1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートのスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、その友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間ギリギリまで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、通りがかり様に半開きになっていたドアから中を覗いた。室内では、ナベサダのコンサートに同行していた、山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が歌舞伎の踊り、狂言、虚無僧ごっこなど乱痴気騒ぎをしていた。そこにタモリは乱入する。中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げるとそれを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。山下トリオの面々は「誰だこいつ?」と動揺するが、中村は機転を利かせてその非礼をデタラメ朝鮮語でなじった。しかし、タモリはそれより上手なデタラメ朝鮮語で切り返し、その後、タモリと中村のインチキ外国語の応酬が始まる。タモリが表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、山下は呼吸困難になるほど笑ったという。始発が出る時間まで共に騒ぎ、タモリは「モリタです」とだけ名乗って帰宅した。
「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下は、博多のジャズバーに「モリタ」という名前の男はいないかと片っ端から問い合わせたという。その後、とあるジャズバーから「喫茶店の変人マスターでは」という情報が入り、タモリと山下は再会することになる。この時期、タモリは転職して喫茶店のマスターであり、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。タモリがマスターを務める喫茶店はライブ喫茶照和の近辺にあり武田鉄矢もアマチュア時代に店に行ったことがあるという。再会後は、山下トリオが九州に行く際に共に遊ぶ仲間となり、山下のエッセイでしばしば取り上げられる、知る人ぞ知る存在となる。
1975年春には、山下が行きつけだった、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」とタモリを上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、同会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[13]。福岡からの上京時に乗ったのは岡山-博多間が開業したての山陽新幹線であった。開かれた独演会では「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎ら臨席した全員を感動させた。
赤塚不二夫との出会い
福岡で生活しつつ、カンパの資金で月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を送り始めたタモリだったが、同年夏、面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫がタモリの元を訪れる。赤塚は、タモリの即興芸に心酔し、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組にタモリを出演させることを決意。放送までまだかなり日数があったため、タモリは福岡に帰ることを望んでいたが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、常人ではありえない発想でタモリを引き止めた。
1975年当時、赤塚は4LDKのマンションに住み[注 1]、ベンツのスポーツタイプなどを保有する売れっ子漫画家だったが、それら全てを自由に使っていいからと東京に残ってくれとタモリに懇願。タモリはこれを了承し、赤塚宅での居候生活が始まる(タモリや赤塚らは「居候」と言っているが、実質的には居候ではなく「生活スペースの交換」)。赤塚宅に住み始めたタモリは、「ジャックの豆の木」を始めとした飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎする日々を送り、赤塚からは月に20~30万円の小遣いが渡されるという破格の居候生活を送った。
なお、生活スペースをタモリに譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送った。赤塚が着る服がなくなりやむなく「赤塚宅」に一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。
同時に「ジャックの豆の木」のママであるA子(A子は匿名ではなく、通称)を社長・山下洋輔を常務とするマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」(「ゴスミダ」はタモリによる韓国語モノマネの一フレーズ)が設立され、所属タレントとなる。オフィス・ゴスミダのマネジメントにより、バラエティ番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放送、NET)で、テレビ番組初出演をした。インチキ牧師などのパフォーマンスを次々と披露していき、偶々、番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰?すごいじゃない」とその夜のうちに問い合わせがあり、次いで『13時ショー』(「徹子の部屋」の前身番組、NETテレビ)の素人芸能コーナー[注 2]に赤塚とともに2回目のテレビ番組に出演をした。次いで、京都大学の学園祭に、筒井康隆・高信太郎・山下洋輔とともに出演。野坂昭如・日高敏隆などの文化人との出会いを果たすが、このときに学園祭主催側と発生した金銭的なトラブルを機に「オフィス・ゴスミダ」は解散した。
赤塚のテレビ特別番組に出演をする当初の目的は達成したものの、赤塚らは次の目的を「タモリを芸能界入りさせる」に設定し、赤塚宅での居候生活は続行。タモリの居候期間はデビュー直前までの9ヶ月近くに及び、居候の途中には妻も呼び寄せている。
赤塚らと飲み屋で騒ぐ素人芸人時代に、放送作家の高平哲郎らとも知り合うなど、芸能界的な人脈も増えていく。売り出すための算段などが練られて、「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズが作られたり、アイパッチ姿(浅井慎平がサイレント映画の大スタールドルフ・バレンチノ風にスタイリングしたもの)にされるなど徐々にキャラクターが作りこまれていった。
特異な芸風から所属事務所が中々決まらなかったが、高平哲郎の紹介を受けて大手芸能プロダクション田辺エージェンシーと契約を結ぶ。大恩人ともいえる社長の田邊昭知とは、後に親友になっている。長寿バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の長寿トークコーナー「テレフォンショッキング」のセットで田邊社長と世間話をするという形が取られた。
なお、芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという。
誰の弟子にもならない
組織には属さない
頭をなるべくさげずにカネをもうける
色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
芸能界入り
1976年4月、東京12チャンネル(現:テレビ東京系列)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で正式に芸能界デビューを果たす。その後、バラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。30歳で芸能界デビューを果たしたため、ビートたけし、笑福亭鶴瓶、明石家さんまなどは年齢が下だが先輩になる。
当時の芸は、イグアナのような体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。このことに対して本人は、キワモノとしての当時を「江頭2:50が出てきた様なもの」と評している。深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でラジオパーソナリティーとして、徐々にマニアックな層からの支持を集めていく。
また、番組以外にも活動の場を拡大し続ける。山下洋輔主催の全日本冷し中華愛好会に参加。
1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショーの一部メンバーも参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
なお、同年10月29日、面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1979年には、映画『下落合焼とりムービー』に出演。また、1981年には、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。
1980年からは、芸能生活5年目のキャリアで、お笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」の審査員を桂米丸(審査委員長)、赤塚不二夫、京唄子、鳳啓助らと行っていた。また、オーディションに来ていた、とんねるずに対して、タモリ、赤塚以外の審査員らには、とんねるずの芸は不評であったが、何故か2人のみが「何か良いんじゃないか」と高評であったと、後年とんねるずは語り、それ以前も尊敬していたタモリに対して、さらに崇拝度が増したと、語った
1980年代
1980年代に入ってからは、密室芸の披露の場を減らし、『ばらえてい テレビファソラシド』(NHK)、深夜バラエティ番組『今夜は最高!』(日本テレビ系列)などで、知性的な部分を前面に打ち出すようになり、ファン層を拡大していく。ただし、当時は下ネタ発言が多く、夜の番組の芸人というイメージが強かった。
その一方で1980年10月からニッポン放送において、夕刻のナイターオフシーズン放送として主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」がスタート。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。この番組がきっかけになり、1982年、当時フジテレビのプロデューサー・横澤彪が「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。『森田一義アワー 笑っていいとも!』と『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)は当初低迷したものの、間もなく人気が沸騰していき、2014年3月31日の放送終了まで31年半続いた長寿番組となった。
また、この時期、深夜のタモリのイメージを崩さないという目的で深夜バラエティ番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)も放送開始、これもまた、30年以上続く人気番組となっている。
『いいとも!』で司会術を磨いたタモリは、1983年には『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビジョン)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が、「NHK紅白歌合戦」の総合司会を務めたのは、タモリが初という異例の起用である。また、1987年4月3日からは音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)で2代目メイン司会を務め、25年以上続いている。
また、上記の番組以外にも『ウオッチング』『驚異の小宇宙・人体』(共にNHK)を始め、『タモリの突撃ナマ放送』『タモリの歌謡スター笑』(いずれも東京12チャンネル時代)、『FNS27時間テレビ』第1回から第3回まで総合司会を務めた『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』(1987年 - 1990年、1987年から1989年まで)がある。
1990年代
1990年代以降は、趣味や知識(タモリ本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すようになり、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)の他にも、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)など続々とレギュラーが増えた。
また、テレビドラマにも積極的に出演するようになり、俳優としてのタモリの活躍の場が増えていくことになる。
1990年代半ばには、女子高校生の間で人気が出るなどし、老若男女問わず幅広い層からの人気を得るようになる。
2000年代以降
2014年3月31日、『笑っていいとも!』が最終回を迎える。1982年10月4日から続いてきた全8054回の当番組は、『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』として、ギネス記録に認定された。
2016年、日本テレビ系スペシャルドラマ『天才バカボン』の主題歌を担当。
同年、社団法人めぐろ観光まちづくり協会の名誉会長に就任。
人物
芸風(愛称)
芸名のタモリは、本名の森田を入れ替えたもの。多くの芸能人からは「タモリさん」「タモさん」と呼ばれる。また大橋巨泉、山下洋輔などからは「タモリ」、和田アキ子や小松政夫、愛川欽也などからは「タモちゃん」と呼ばれる。SMAPの中居正広はたまに「森田さん」と呼ぶことがある。
エピソード
デビュー当初、タモリはビートたけしとともに「お前らはせいぜい3年だ」などと暴言を吐かれていた。
デビュー当初はディップ(整髪料)で固めて、頭の真ん中分けで、中洲産業大学教授を演じるときのみボサボサとした髪型にしていた。その後『いいとも!』のみ、ディップで固めた7:3分けで出演していたが、その後オールバックの髪型に変更。この髪型もまたタモリのトレードマークとなっている。またこのときに共演者の明石家さんまがカツラだとネタにしたことから「カツラ疑惑」が生まれた。本人もしばしばネタにのることがある。
母親は3度結婚し、子どもを6人もうけた。祖父母に預けられて育ったため、父親とはあまり面会機会がなく良い印象も持っていない。
妻は1981年に行われた所ジョージの結婚披露宴で仲人を務めた以外はほぼ表舞台に登場しない。タモリと親交のあるニッポン放送アナウンサーの上柳昌彦はタモリの妻について、「タモさんの夫人ということでいろいろ考えられるかもしれませんが、至って普通の方ですよ」と語っている。タモリは「自宅に仕事とセックスは持ちこまない。仕事に家庭は持ちこまない」との信条を持っており、表舞台で妻の話はほとんどしないが、上柳は「話さないのは奥様が至って普通で面白くないからでは?」と分析する。妻は芸能界嫌い(このためタモリの仕事にも立ち入りせず、仕事で帰りが遅くなっても不満がらない)で口数は少なく、ブランド物にも無頓着だという。一方、朝5時半に起床し家事をしっかりこなし、このこともありタモリは『いいとも!』に遅刻をしなかった。自身が多忙であるため、妻と一緒に居ることは少なかったが、2010年頃より週末に国内旅行を共に行うようになった。妻と世界一周旅行をすることが夢と語っている。
妻は両親の介護の問題もあり、実家の福岡と東京を往復する生活を長年続けてきたが、彼女自身も高齢となったため2012年頃より体調を崩すことが多くなったという。タモリは『いいとも!』終了により多くの友人たちから旅行などの誘いを受けているが、当分は夫婦の時間を大切にする意向だとされる。
妻との間に子どもをもうけなかった理由について、「自分が子どもなので親父になる責任が持てなかった」と述べている。
2014年3月17日放送分の『いいとも!』内「タモリ名言珍言の真意を本人に聞くSP」では、勝俣州和がタモリの「気取った料理を気取って食わせる料理人はバカ」という名言を紹介した。「いい料理人はまず居心地を大切にしてお客を感動させて帰す。店の主役は料理人じゃない。お客さん!」という感情を述べたものだとタモリ自身が認めた。
2014年7月27日放送の『FNS27時間テレビ』内で『いいとも!』の後継番組『バイキング』に対し、「リビングで通りすがりに観た位。意識的には、未だに観てないね。全く気にならない」と語った。
NHK『連続テレビ小説』の作品をよく視聴している。なお、朝ドラ本放送終了直後に生放送される『あさイチ』も視聴しているが、同番組キャスター陣が行う「朝ドラ受け」には否定的な考えを持っている。
NHK総合テレビ『鶴瓶の家族に乾杯』もよく視聴している。
象印賞を受賞した経験がある。
2008年よりヨットレースとして、自らの名前を冠した「タモリカップ」を開催している。2008年から2012年にかけては自らのヨットがあるヤマハマリーナ沼津での開催となっていたが、2013年は沼津での開催を休止する代わりに横浜・福岡の2ヶ所で開催された(ただし横浜・福岡ともレースは荒天のため中止)。2013年は横浜で192艇・福岡で84艇ものエントリーを集め、国内最大級のヨットレースに成長している。2016年は9月20日に宮城県で開催予定であったが、同日にアイドルグループの嵐が同県内で大規模なライブを開催、大挙して宮城県に訪れたファンが宮城県内と周辺の殆どの宿泊施設を押さえて軒並み満室にしてしまったため、100人に及ぶ大会参加者や関係者の宿泊施設が確保できなくなり、止む無く中止を余儀なくされた。後に嵐のメンバーからタモリに対して直接謝罪があったという。
体臭に加齢臭がなく、むしろタモリの体からは「甘い臭いがする(タモリ自身談)」「ミルキーな臭いがする(リリー・フランキー談)」「赤ちゃんっぽい臭いがする(宮沢りえ談)」と言われる。
体毛が非常に薄い。「笑っていいとも!」などの番組でよくズボンの裾を捲って見せていた。
御節料理について、味が濃くて冷たいので大嫌いと語っている。
マンハッタン・トランスファーの日本ツアーの司会のオファーがあったと「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」のコーナーで明かしている。しかし、マネージメント側が「そんなの(スケジュールを)押さえられませんよ!」と断ったという。
父親が生前南満州鉄道で機関士として勤務していた。そのためか大の鉄道マニアである。「タモリ倶楽部」では「タモリ鉄道倶楽部」を結成し、喜々として鉄道を楽しむ様子が見られる。
番組で着用しているスーツは自身のオーダーで作られた特製品であるが、それに「Ferratio Bokkini(フェラチオ・ボッキーニ)」という如何わしい名前を付けている。「笑っていいとも!」でそれを明かした際、当時レギュラー出演していたナインティナインの矢部浩之に「ボッキーニはわかりますけどフェラチオて・・・」と呆れられている。
音楽[ソース
ジャズをこよなく愛しており、レコードも数多く所有している。植草甚一の死後に、散逸を防ぐためにその膨大なレコードコレクションをすべて引き取ったことでも知られる。新宿ジャズスポット「J」を経営する株式会社ノースウエストエンタープライズの取締役を務め、また奏者としては、各種セッションへの参加は勿論、テレビの場でもトランペットを度々演奏している。他方、「意味性」のある音楽については苦手としており、自身は数多くの音楽番組の司会を長年務めているものの、ポップスなどのミュージシャンについてコメントすることはほとんどない。例外として、『いいとも』の「テレフォンショッキング」に出演した小沢健二について「いいと思う歌詞は小沢くんだけ」と公言したことがある。
交友関係
恩人である赤塚不二夫の死
2008年8月2日、タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。
同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列。その告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです」との弔辞を読み上げた。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいたが、実際にはその紙は全くの「白紙」で、勧進帳のごとく、何も書いていなかった。
なお、この弔辞は葬儀委員長であり、タモリ、赤塚の共通の友人でもある藤子不二雄Aから直に依頼を受け読み上げたもの。また、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜でタモリと会っており、横澤が尋ねるとこの事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は『勧進帳』、および『安宅』の項をそれぞれ参照)。
プロデューサー・横澤彪
2011年1月8日、『いいとも!』初代プロデューサーを務めていた横澤彪が肺炎のために亡くなった。タモリは「夜の番組しか出演出来ないと言われていた私をいきなり昼の真ん中に起用してくれました。私自身は昼も夜も意識したことはありませんでしたが、私で大丈夫なのかと不安でした。『笑っていいとも!』は今秋30周年を迎えます。大変お世話になりました」とコメントを寄せ、恩人の死を悼んだ。葬式や通夜には参列しなかったが、1月12日に横澤の自宅で対面した。
故人はタモリ・ビートたけし・明石家さんまの「BIG3」を人気者へと押し上げた一人でもあった。
黒柳徹子
『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』にてタモリがテレビ初出演時にラブコールを送り、知名度を上げるきっかけを作った。『徹子の部屋』にて、1977年に8月11日に初出演、39回出演し、1978年から2013年まで36年もの間、毎年年末最後の放送に出演するのが恒例となっていた。
井上陽水
同郷福岡の親友。『いいとも!』終了前に、オリジナル曲「タモリに贈る詩」を贈った。
とんねるず
とんねるずはデビュー以前からタモリを崇拝しており、とんねるずが素人時代に日本テレビのお笑いスター誕生に出演した際、タモリが審査員で他の審査員には当時革新的であったとんねるずのネタは受け入れられなかったが、タモリと赤塚不二夫だけは、「なんかわけわかんないけど、お前等は面白い」と言ってとんねるずを絶賛し、このことが契機となりとんねるずは芸能界入りを決めたと言う。また、とんねるずがタモリのオールナイトニッポンを見学に行った際は少し話し、とんねるずはタモリがなんか奢ったりしてくれるだろうと考えていたが、タモリは「じゃっ、お疲れ!」と言ってタモリは帰ってしまったと、後年冗談めかしく語っている。その後、石橋貴明、木梨憲武共に、タモリと交友は続き、『いいとも!』にも個人で出演したり、野猿や矢島美容室などのグループで出演することはあったが、とんねるず2人での出演は2014年の『いいとも!』放送8000回の際に、29年ぶりに出演を果たしいいとも終了が後2ヶ月まで迫っている中で、直接レギュラー化を懇願し、レギュラー化が決まった。また、テレフォンショッキング史上、最長出演であった。これによってとんねるずは『いいとも!グランドフィナーレ』にも『伝説のレギュラー陣』として出演し、明石家さんま、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、ナインティナインと共演を果たした。特にダウンタウンとは、20年以上ぶりの共演であった。
草彅剛(SMAP)
タモリが草彅を自身の別荘や家にたびたび招待しており、二人について周囲の第三者によると「まるで親子のように仲が良い」とのこと。
タモリについての著作がある戸部田誠は『笑っていいとも!増刊号』を見て草彅を称賛したあと、「やっぱ、タモリさんの正当な後継者って草彅剛だなぁって改めて思う」と書き記した。
高島宗一郎(元九州朝日放送アナウンサー、現福岡市長)
高島の父親とは西高宮小学校、高宮中学校で同級生だった。『 笑っていいとも』で、ゲストの三谷幸喜が福岡市長とのエピソードを披露すると、逆にタモリは高島の父と西高宮小学校、高宮中学校で同級生であったエピソードを披露して逆に三谷と観客を驚かせた。
坂崎幸之助(THE ALFEE)
THE ALFEEのメンバーの中で最も親交が深く、「下落合焼とりムービー」で共に出演した他、所ジョージとタモリが二人でツアーを行った際にバックバンドに参加している。
仕事
基本的に弟子は取らない方針で、希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るという。ただし付き人や運転手は存在する(タモリはテレフォンショッキング等のフリートーク時にはなるべく「うちの若いもん」「うちの若い奴」などと表現していた)。1980年代後半には岡村、90年代後半には金子という付き人・運転手がいて、度々『いいとも!』などに出演させていた。その後、イワイガワのジョニ男も運転手を務めていた。なお、多くの芸能・有名人がメルセデスベンツ・ロールスロイスなどの高級車を移動に使用する中で、いち早くワンボックスカーやミニバンを移動車として使用する等、先進的な一面も見られる。
2016年8月、ごく身内のみが集まった71回目の誕生日会で引退を示唆する発言を行ったという。以前から親しい関係者に「古希になったら芸能界を引退する」と語っていたとも言われる。
2013年度には『いいとも!』で5億円(1回の放送で200万円)程度、他番組と通算で7億円程度のギャラを得たとされる。2003年以降の推定年俸から考えると『いいとも!』開始から2013年までに135億円程度を稼いだと言われる。一方、自身は収入については無頓着であり、放送局とのギャラ交渉にも意見をすることはほぼない。
2015年にはNHKから『第66回NHK紅白歌合戦』の総合司会のオファーを受けたが、スケジュールの都合などを理由に辞退したと報じられている。
評価
1988年「新語・流行語大賞」では、栄養ドリンク「ユンケル黄帝液」のCMで「特別賞・人語一体傑作賞」を受賞した。
現在ではビデオリサーチの企業などがおこなうタレントの好感度ランキングでは、ビートたけし・明石家さんま・笑福亭鶴瓶・所ジョージらとともに現在に至っても上位にランクされることも多い。笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「何で人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリがトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った。
作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、トニー谷などの系譜に位置する「下半身の弱い」芸人と批評。本来異端だったのに一般人気が高まった現象を、似非インテリ受けと切り捨てている。
2010年、優れた芸術活動を表彰する第2回伊丹十三賞を受賞。同年4月9日に贈呈式が行われ、賞金100万円が贈られた。受賞理由は「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」であった。
受賞歴
1981年 - 第10回「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門受賞
1982年 - 第19回「ゴールデン・アロー賞」芸能賞受賞
1984年 - 第21回「ゴールデン・アロー賞」放送賞受賞
1984年 - 第12回「日本放送演芸大賞」受賞
1986年 - 「流行語大賞」受賞
1986年 - 「ゆうもあ大賞」受賞
2003年 - 「ギネス・ワールド・レコーズ」(2003年度版『笑っていいとも!』生放送単独司会最高記録受賞)
2010年 - 第2回「伊丹十三賞」受賞
2013年 - 第16回「みうらじゅん賞」受賞
2014年 - 第14回「ビートたけしのエンターテインメント賞」特別賞受賞
2014年 - 「ギネス・ワールド・レコーズ」(2014年度版『笑っていいとも!』生放送単独司会最高記録更新)
2014年 - 第62回「菊池寛賞」受賞[54]
2015年 - 2015 55th ACC CM FESTIVAL・クラフト賞 フィルム部門 演技賞 (サントリー「BOSS」のCMの演技に対して)
芸
密室芸
居候時代に培った芸は「密室芸」と呼ばれる。命名者は奥成達。現在でも、徹子の部屋などに出演した際は、密室芸を披露することがある。
タモリは上京当初、「北京放送」や形態模写くらいしか持ちネタがなかったが、臨席した人物からの無茶振りをそつなくこなし、それを自らの芸として確立させていった。前述の「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」は「宇宙飛行士→大河内伝次郎の宇宙飛行士→ターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士…」と客の指示により、状況が変わっていく即興芸。「4カ国麻雀」は「北京放送が出来るのならこういうの出来ない?」という山下洋輔の要望による。
また、団しん也や小松政夫らも持ちネタとしている、「マジックショーの電動ノコギリで切られる有名人」は、おもしろグループでの宴会芸が発端となって、永六輔や野坂昭如などが切られたときのリアクションをそれぞれやったらウケたので、特に専売特許と決めていないと、両氏は語っている。
ただし、放送できない部類のパロディ・ブラックユーモアが特徴であり、テレビなどで密室芸と称して行う場合は放送して差し障りの無い程度に表現を緩和あるいは差し替えている。「4カ国麻雀」は元々は、毛沢東・マッカーサー・ヒトラー・昭和天皇の麻雀対局であり、最後に昭和天皇が「結局○○人が悪い!」と民族差別的な発言をして終わるものだった。「イグアナ」も元々は全裸。
持ちネタの一つだった昭和天皇の物真似については、1985年5月14日、作家の筒井康隆のパーティーで披露したところ、それが翌週の「週刊読書人」に掲載され、右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所の田邊昭知社長が半監禁状態で右翼から抗議される事態に至った。この後、6月26日に筒井が製作する映画『スタア』に昭和天皇役でオファーがかかったが、タモリ側の希望でアドルフ・ヒトラー役に変更になり。この事件以降、昭和天皇ネタは封印されている。
知識人を揶揄した「中洲産業大学教授」などのネタや「思想模写」などがある。
思想模写
寺山修司のものまねは、喋り方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前、喋る内容や論理の組み立て方が自分と同じと語っていた)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後のものまねに多大な影響を与えた。
こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして野坂昭如や竹村健一、田中角栄、大橋巨泉、永六輔、横井庄一、浦辺粂子、久米明、安藤忠雄など他多数存在する。
筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物と全く同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評する。
『笑っていいとも!』で千原ジュニアの後輩がタモリに美味しい店を地図に書いて教えて貰った際に、建物には建物名ではなく「茶色の5階建て」「下にコンビニがある9階建てのビル」と書いてあり、「もしかしてタモリさんは風景や人を写真のように覚えているのか?」と思ったジュニアが「だから久々に会った人に『髪切った?』と聞くのは写真で頭に記憶しているからじゃないんですか?」と訊ねると、タモリも「ちょっとそういう(能力)がある」と認めていた。
司会芸
司会者としては、多趣味を生かした話のフリと、相手の話をきちんと理解しきちんと切り返すという技術に確かなものがある。ただし、バラエティ番組の司会、特に『いいとも!』においては、要所を押さえながらも自由すぎる行動や発言を織り交ぜるのを特徴としている。 またゲストに失礼なリアクションをした若い一般観衆に対して、場の空気を壊さずに注意したりたしなめたりする能力は他の追従を許さず、「これ程上手に叱る司会者はいない」と横澤彪に評された。
音楽芸
「誰でも弾けるチック・コリア」「誰でも弾けるハービー・ハンコック」など誰でも弾けるシリーズや、中国人の弾き語りなど、ピアノの鍵盤を使った芸を数多く持つ。また、ラップやボイス・パーカッションなども得意としている。
安産祈願
ネタのひとつとして安産祈願をする。元々『いいとも!』の「テレフォンショッキング」で紹介されたテレフォンゲストへのメッセージのメモをとるふりをしていたが、本当にとっているわけではなく、放送禁止の女性器を簡素化した図形を描き、テレフォンゲストに見せて、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをテレフォンゲストが持ち帰るようになった。
現在(2010年代時点)でも、タモリの持つ番組などで身近に出産を間近にしている著名人や素人等に書いている場面があり、その際、妊婦のお腹に手を当てて、「安産スッポン!」と何度も言葉を口にすることもある。安産祈願第1号は、坂東三津五郎(当時・坂東八十助)の長女。
出演番組について
冠番組
『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の放送が始まった1982年頃から、バラエティ番組のメイン司会業の仕事が増え、自身の冠番組が続々と誕生していく。『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)、『タモリ倶楽部』・『ミュージックステーション』(共にテレビ朝日系列)の3番組を軸として、加えて、ゴールデンタイム・プライムタイム、ラジオ番組のレギュラー番組を週に7 - 8本はこなす時期が1980年から2000年代に掛けてあった。
代表的な番組として『今夜は最高!』(日本テレビ系列)、『ジャングルTV~タモリの法則~』(毎日放送制作・TBS系列)、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)等が開始されていった。また、博識が評価され『今夜は最高!』(日本テレビ系列)の「オペラ昭和任侠伝」が、同年の民間放送連盟賞のテレビ娯楽番組部門最優秀賞を受賞した。
NHK総合テレビ = 『ブラタモリ』
日本テレビ = 『今夜は最高!』
テレビ東京 = 『タモリの音楽は世界だ!』
TBS = 『ジャングルTV~タモリの法則~』(毎日放送制作)
フジテレビ = 『タモリのボキャブラ天国』『世にも奇妙な物語』『トリビアの泉 ~素晴らしきムダ知識~』『タモリのジャポニカロゴス』
ニッポン放送 = 『タモリのオールナイトニッポン』『タモリの週刊ダイナマイク』『ブリタモリ大百科事典』 他多数
上記は、1980年から2000年代当時のレギュラー番組であるが、このうち日本テレビ、TBS、フジテレビ全てのレギュラー番組の視聴率が10 - 20%台をマークしていた。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃により、ビートたけし・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
ドラマ出演
主にバラエティ番組で活躍しているが、テレビドラマにも出演してきた。テレビドラマ初出演作品は、ドラマ人間模様『詐欺師』(NHK)であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。なお、このドラマではトレードマークのサングラスをかけずに出演していた。
他には、月曜スター劇場『なぜか、ドラキュラ』『今夜は営業中!』(日本テレビ系列)、『代議士秘書の犯罪』『不連続爆破事件』『ミセスとぼくとセニョールと!』『自主退学』(TBS系列)などで主演を果たしている。
2000年代以降でもストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』(フジテレビ系列)にエキストラで出演したり、2004年に『X'smap~虎とライオンと五人の男~』(フジテレビ系列)にてデビュー時の眼帯をつけた姿で登場、2007年に『和田アキ子殺人事件』(TBS系列)[67]に本人(森田一義)役で出演、2012年に『ATARU』最終話(TBS系列)[68]に宝飾店店員役でゲスト出演している。また、『HERO』劇場版では、悪徳政治家を演じた。
情報・報道番組出演
バラエティ番組以外に、情報・報道番組に登場することもある。
『タモリのセンキョでいいとも! ~参院選FNN開票速報~』(フジテレビ系列)
1983年6月26日に実施された第13回参議院議員通常選挙では、タモリが選挙メインキャスターとなり、フジテレビ系列・FNN系列にて『いいとも!』をアレンジとした『センキョでいいとも!』が放送された。
『FNN DATE LINE』及び『FNNスーパータイム』(何れもフジテレビ系列)
1988年と1989年の全2回、タモリが司会を務めたFNSの日『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島'88・'89』のニュースコーナーとして放送された『DAТE LINEデラックス』や『スーパータイムデラックス』を進行アナウンサーの露木茂と担当(その他では、『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)のトークコーナー「テレフォンショッキング」でも何度も共演をしていた)。
『FNNスーパーニュース』(フジテレビ系列)
全3回程度出演し、メインキャスターの安藤優子と共演(その他では露木同様、『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)のトークコーナー「テレフォンショッキング」でも共演)。『スーパータイムスペシャル』、『タモリ&安藤優子のSuperスーパーニュースSpecial』にも出演している。
ゲスト出演
徹子の部屋(テレビ朝日系列 / 年内最後のゲストとして2013年まで必ず出演していた)37年
現在の出演番組
レギュラー番組
タモリ倶楽部(テレビ朝日系列 / 金曜日 24:20 - 24:50)
ミュージックステーション(テレビ朝日系列 / 金曜日 20:00 - 20:54)
ブラタモリ(NHK総合 / 土曜日 19:30 - 20:15)
単発・不定期番組
世にも奇妙な物語 春・秋の特別編(フジテレビ系列 / 番組改編時期の春・秋に放送、ストーリーテラー役として出演)
ミュージックステーションスペシャル スーパーライブ(テレビ朝日系列 / 年末年始特番)
タモリのオールナイトニッポンGOLD Song&Bossスペシャル(ニッポン放送 / 年末年始特番)
ミュージックステーションスペシャル ウルトラFES(テレビ朝日系列 / 毎年9月下旬大型特番)
CM
サントリー「プレミアムボス 微糖」(2015年 - )
スマートニュース(2016年 - )
アルバム
1st タモリ LP:1977年03月20日 ETP-72227(東芝EMI/Alfa) 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。2007年発売版では「ブラジャー・ミシン」(ブラザー工業風のパロディCM)のセリフの一部がカットされて収録されている(乳がん患者への配慮と思われる)。
LP:1980年(再発) ALR-4013(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9159(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)
2nd タモリ2 LP:1978年12月20日 ETP-80060(東芝EMI/Alfa) 講師として中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。
LP:1980年(再発) ALR-4007(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9160(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)
3rd タモリ3
- 戦後日本歌謡史 -
LP:1981年9月10日 TAMORI-3(アルファ) 実際には『タモリ2』発売以前より録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる[71]。未CD化。
4th ラジカル・ヒステリー・ツアー
LP:1981年05月01日 27AH-1237(CBS/SONY) サザンオールスターズの桑田佳祐、THE SQUARE(現:T-SQUARE)の安藤まさひろ(本名の安藤正容名義で)と当時メンバーだった久米大作が楽曲を提供。安藤、久米の提供曲はTHE SQUAREがバック演奏を担当している。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。
5th HOW ABOUT THIS
LP:1986年09月21日 VIH-28272(ビクター) 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。
CD:1986年09月21日 VDR-1276(ビクター)
その他
「タモリさんが作った歌」
宝塚歌劇団時代の大地真央のためにタモリが作詞・作曲を手掛けた。編曲は小笠原寛。CD『この愛よ永遠に ~TAKARAZUKA FOREVER~』に収録されている。
「ラーガ・バガヴァット」
赤塚不二夫の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(2016年公開)の主題曲の作詞とボーカルをタモリが担う。
ゲーム
「森田一義アワー 笑っていいとも!ボードゲーム」(1985年)
「森田一義アワー 笑っていいとも!タモリンピック」 スーパーファミコン専用ゲームソフト(1994年、アテナ)
「タモリのSuperボキャブラ天国 CARD GAME ヤングアダルト向カルタ的 豪華美麗カードゲーム」
(発売元:タカラ、販売元:セントラルホビー)
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