「マンションで楽器なんて常識がない」とポストに匿名の手紙→演奏会に招待した結果
ポストに入っていた一通の手紙
火曜の朝、ポストを覗くと、宛名のない白い封筒が入っていました。便箋にはきっちりとした文字で「マンションで楽器なんて常識がない。すぐにやめてください」と書かれていたのです。
誰が書いたのか。同じフロアの方か、上下階の住人か。10年続けてきた練習を、これからどうすればいいのか。封筒を手にしたまま、玄関でしばらく立ち尽くしていました。
弱音器はずっとつけていたし、練習は日中の1時間だけ。それでも誰かにとっては許せない音だったのかもしれません。自分の趣味が誰かを傷つけていたという事実が、頭から離れませんでした。
思い切って書いた招待状
週末まで、ヴァイオリンには触れませんでした。ケースを開けるたびに、手紙の文面が浮かんでくるのです。誰かを不快にさせ続けることは、私には耐えられないことでした。
週末を過ぎても気持ちは収まらず、それでも思い切って手紙を書きました。心当たりのある何軒かにだけ、白い便箋を投函したのです。
「先日のお手紙、ありがとうございました。お騒がせしていたこと、心からお詫びします。もしご都合よろしければ、一度だけお聴きいただけませんか」
返事は期待していませんでした。それでも、ただ怯えて練習をやめるよりは、自分から一歩踏み出したかったのです。
玄関のチャイムが鳴った日曜日
日曜の午後、玄関のチャイムが鳴りました。立っていたのは、隣室に住んでいる年配の女性でした。何度かエレベーターで会釈する程度の間柄で、名前も知らない方です。手には焼き菓子の小さな箱がありました。
「お手紙、ありがとう」
女性はそう言って、控えめに微笑みました。紅茶をお出しし、手紙のことに触れていいか迷っていると、女性のほうから「あれを書いたのは私です」と打ち明けてくれたのです。深く頭を下げる女性を前に、私はかける言葉を探していました。
ヴァイオリンを一曲だけ弾きました。子守歌のような、ゆっくりとした曲です。演奏が終わると、女性は窓のほうを向いたまま、しばらく動きませんでした。やがてこちらを向いて「本当は、音色を聞くと、諦めた昔の自分を思い出してしまって」と、声を絞り出すように打ち明けてくれたのです。
そして...
女性は若い頃ピアノを習っていて、ずいぶん上達もしていたそうです。けれど結婚と育児で続けられなくなり、楽器から40年余り遠ざかっていました。手紙を書いた本当の理由は「うるさいから」ではなく「忘れたかった気持ちを揺さぶられたから」だったのです。
私は「もしよかったら、また聴いていただけませんか」とお願いしました。それから女性は週に一度、私の部屋に紅茶を飲みに来るようになりました。練習を聴きながら、若い頃のピアノの話をぽつぽつとしてくれます。「またお邪魔してもいい?」と帰り際に必ず聞いてくれるので、私はその言葉を待つようになりました。
匿名の手紙は、誰かと向き合うきっかけになることがあるのだと、今は思っています。
(30代女性・会社員)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
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