見知らぬ母親に「邪魔」と吐き捨てた半年前のあの日、私が本当に抱えていたもの
診察室を出た朝
その日の朝、父の主治医から告げられたのは、想像していた以上に重い言葉でした。残された時間は、長くてもあと数カ月。診察室を出てから、私は涙を堪えながら電車に乗ったのです。
実家近くにあるあのパン屋に向かいました。父が昔から好きだった、くるみのパン。「もう一度食べたいな」と言っていたのを思い出して、買って帰るつもりだったのです。
振り上げてしまった声
レジ前は混んでいました。私の前には、ベビーカーを押した母親が立っていたのです。通路は確かに狭くて、けれど通れないわけではありません。普段の私だったら、横をすり抜けるか、後ろで待っていたはずでした。
あの日に限って、抑えていた何かが切れたのです。気がつくと「ベビーカーが邪魔なんですけど」と、自分でも驚くほど低い声が出ていました。母親が振り向いて「あ、すみません」と慌てて頭を下げた瞬間に、しまった、と思ったのです。彼女は「すみません、すみません」と、何度も繰り返しました。横を抜けてくるみのパンを買い、そのまま店を出てしまったのです。
半年通い続けた席
父はそれから2カ月後に亡くなりました。葬儀を終えてからも、あの日の母親の顔が、頭から離れませんでした。怯えたように何度も繰り返していた、あの「すみません」。私が悪意もなく傷つけてしまった、見知らぬ誰か。
それからというもの、平日の午後になると、あのカフェに足を運ぶようになっていました。本当に来てくれるかなんてわからない。会えたとしても、何を言えば許されるのかもわからない。それでも私は、窓際の席で、同じ時間にコーヒーを頼み続けたのです。
そして...
半年経った、その日のことでした。扉の鈴が鳴って、よちよち歩きの男の子の手を引いた、あの母親が入ってきたのです。立ち上がるべきか、声をかけるべきか、目をそらすべきか決められませんでした。少し時間がたってから彼女のほうが私を見ました。
ほんの数秒、目が合いました。私はただ、頭を下げました。声が、出なかったのです。「あの日、本当にすみませんでした」。喉まで来ていた言葉が、どうしても出ていきませんでした。私は会計を済ませて、店を出ました。
許してもらうために通っていたのか、罰のように通っていたのか、自分でもわかりません。あの目礼が彼女に届いたかどうかも、わかりません。それでも、あの席に毎週座り続けた半年が、何の意味もなかったわけではないと、そう思いたかったのです。
(30代女性・会社員)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
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