サザンオールスターズ(さざんおーるすたーず)

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サザンオールスターズのプロフィール

サザンオールスターズ(英語: Southern All Stars)

日本のロックバンド。所属芸能事務所はアミューズ。所属レコード会社はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント、所属レーベルはタイシタレーベル。略称は「サザン」「SAS」。公式ファンクラブ名は「サザンオールスターズ応援団」。

メンバーは青山学院大学の学生らで結成され1974年から断続的に活動が始まり、1978年に「勝手にシンドバッド」でデビュー。1979年に「いとしのエリー」が大ヒットし、1980年代では「チャコの海岸物語」「Ya Ya (あの時代を忘れない)」「ミス・ブランニュー・デイ」「Bye Bye My Love (U are the one)」などがヒット。1990年代になると「涙のキッス」「エロティカ・セブン」「あなただけを ~Summer Heartbreak~」「愛の言霊 ~Spiritual Message~」の4作がミリオンセラーを記録。

2000年代には「TSUNAMI」がダブルミリオンを記録し「HOTEL PACIFIC」や「涙の海で抱かれたい ~SEA OF LOVE~」「I AM YOUR SINGER」などもヒット。2010年代では、「ピースとハイライト」がオリコンチャートで1位獲得して、1980年代から2010年代まで4つの年代でチャート1位という記録を持ち、幅広い世代に支持されているロックバンドである。大半の曲はバンドのリーダーである桑田佳祐が作詞・作曲・歌唱を担当している。

■メンバー

桑田佳祐
生年月日:1956.2.26
血液型:A
出身地:神奈川県茅ケ崎市

関口和之
生年月日:1955.12.21
血液型:O
出身地:新潟県

松田弘
生年月日:1956.4.4
血液型:O
出身地:宮崎県

原由子
生年月日:1956.12.11
血液型:B
愛称:ハラボー
出身地:神奈川県横浜市

野沢秀行
生年月日:1954.10.19
血液型:A
愛称:毛ガニ、ケガちゃん
出身地:東京都

■経歴

結成までの推移とアマチュア時代
1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐と関口和之は、音楽サークル「AFT」(青山フォークサークルたびだち)で知り合い意気投合。同年夏にAFTのメンバーらとロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成する。

翌1975年には青山学院大学に大森隆志と原由子が入学し、同じくAFTに入部。「温泉あんまももひきバンド」を知った原は桑田を危険人物だと思い、他のAFTメンバーらとフォークグループを組んでいた。初夏に「温泉あんまももひきバンド」は「ピストン桑田とシリンダーズ」と改名、この頃から大森は桑田に興味を持つようになり、バンドの練習現場にしばしば現れるようになったという。

同年AFTの夏合宿の際にロック派とフォーク派が対立し、AFTは分裂する。桑田らロック派は新たなサークル「Better Days」を立ち上げるが、同年秋に「ピストン桑田とシリンダーズ」が解散する。まもなく一度はフォーク派に行った原がBetter Daysに移り、同年10月に桑田と原はバンドを結成する。このバンドは「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」など、メンバー構成が変わるたびに名前を変えていた。

この時期の一部の活動は、桑田が宮治淳一らとともに地元で立ち上げた「湘南ロックンロールセンター」というサークルが企画したコンサートで行われていた。「青学ドミノス」のライブもここで行われていたという。

1976年、桑田の望んでいたパーマネントに近いメンバーが揃ったものの、この時桑田は新たなバンド名を思い付けずにいた。4月11日にコンサートが行われるのに伴い、宮治は桑田にバンド名を早く決めるよう催促していたが、バンド名が決定しないままコンサートのポスター製作が進行されていった。最終的に宮治がバンド名の考案役となり、ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』をBGMにポスターを製作中、一息入れるために風呂でラジオを聴いていた際にファニア・オールスターズの来日コンサートの宣伝が流れ、風呂から上がった際につけっぱなしのレコードからニール・ヤングの「サザン・マン」が流れていて、これを組み合わせた際の響きが良い事と、当時桑田の家が茅ヶ崎市南湖にあった事に掛け、「サザンオールスターズ」という名前を考え出し、バンド名を「桑田佳祐&サザンオールスターズ」とした。宮治によるとこのバンド名を桑田本人に伝えたのはライブ当日だという。

桑田が望んでいたパーマネントな「桑田佳祐&サザンオールスターズ」は長く続かず、再びメンバーが頻繁に入れ替わる事態に陥る。後の音楽評論家萩原健太がギタリストとして参加していた時期もあったが、翌1977年初頭に一旦活動を停止する。しかし、このような状況に懸念を抱いた大森が桑田のバンドの復活をもくろみ、桑田に「ちゃんとしたバンドをやろうよ」と声をかけ、昔のバンド仲間で大森を慕い上京していた松田弘を桑田に紹介したり、各メンバーの親の承諾を得たうえで自ら「EastWest」に申し込んだり、バイト先で知り合ったセミプロの野沢秀行をバンドに加入させようとしたり(ただし、野沢は「オレはセミプロだからアマチュア・バンドに付き合ってる暇はないんだよ」と言って断った)するなど暗躍した。

1977年3月に「サザンオールスターズ」として再編された。この時のメンバーは桑田、大森、原、松田、天野和平(後にトランザム)であった。なお、原の著書によれば、この頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。新生サザンはヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に参加するが、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得した。この直後に野沢が大森の勧誘を受ける形でなし崩し的に加入した。

なお、サザンの事実上の結成はこの再編時の1977年であるが、最初の約1年間は現在で称するところのインディーズとしての活動であった。

レコード会社は早々にビクターに決まったものの、事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセット(前述のEastWest '77で披露した曲であり、当時の代表曲的存在)を持って事務所周りをしていた際、当時新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まる。アミューズは原田真二の個人事務所的存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったという。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったという。

桑田と高垣は事務所周り中に宇崎竜童にあいさつをしたとされ、その際にデモテープを渡したが「言葉のわからないロックは嫌いだ」と言われ突き返されたと桑田は語っている。なお、後に宇崎は原に「うさぎの唄」を提供している。

デビューに向けて着々と準備が進めている中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収めた。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったという。

デビュー初期
1978年6月25日にメジャーデビューした。同日シングル「勝手にシンドバッド」でビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)から発売となったが、発売当初は売り上げは低迷し、チャート100位にも入らなかった。

同年8月にコミックバンドのザ・ハンダースが「思い出の渚」でレコードデビューしたのを受けて、事務所はコミックバンド的な路線を取る。8月31日にサザンは人気音楽番組『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーで初出演(新宿ロフトから中継)。この際に桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言(この発言はのちに「台本によるもの」と明かしている)が飛び出し、この発言で初期サザンの色が決定づけられることになった。青学の後輩やあいざき進也ファンクラブのメンバーを集めてどんちゃん騒ぎの中で「勝手にシンドバッド」を熱唱。「勝手にシンドバッド」は徐々にチャートが上がり売り上げを伸ばしていった。同年11月9日に「勝手にシンドバッド」が『ザ・ベストテン』10位にランキングされスタジオに登場。

当時、桑田の日本語を英語っぽく発音してロックに乗せるいわゆる「巻き舌唱法」は、音楽ファンや関係者の間で賛否両論となった。なお、桑田はこの歌唱法や後述の作詞・作曲法をアマチュア時代からしていたため、歌唱法が批判されたりしたことを意外に思っていたという。

『10ナンバーズ・からっと』を製作していた期間はそれと並行して雑誌の取材やテレビ出演、CM撮影などに忙殺された日々を送っており、精神的にも落ち込んでいたという。

1979年3月25日、3rdシングル「いとしのエリー」、同年4月5日、2ndアルバム『10ナンバーズ・からっと』を発表。特に「いとしのエリー」は、徐々にヒットしロングセラー化。この頃から世間のサザンに対する評価は少しずつ変化していくようになった。

1980年には「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」FIVE ROCK SHOWと銘打った計画を開始[20]。しかし、メディアへの露出が大幅に減ったのが影響し「ヒット」と呼ぶには至らず、アルバムは売れるのにシングルは売れない状況に陥る。FIVE ROCK SHOW終了後再びテレビ番組に出演するようになったが、この傾向は変わらず、1981年発売の12thシングル「Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)」はサザン史上シングル中ワーストの売り上げを記録している。その後1982年に「チャコの海岸物語」がヒットし、以降順調にバンド活動を進め、シングルやアルバムがヒットを連発し、野外ライブでは大滝詠一、長渕剛、沢田研二、RCサクセション、サード・ワールドなどとも共演し、1985年には佐野元春から声がかかり「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演した。

同年に、サザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動も一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後に個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。この活動休止は、桑田が「全員がソロ活動をやって、一つ一つが別個性として出てくれば理想的だね」と持ち掛けたところ、全員がそれを受け入れたことや、「あのままだとサザンはパンク寸前だった」「俯瞰で自分やサザンを見直した方がいいんじゃないか」というムードがメンバー全員にあった事が語られている。

10周年での活動再開 - 小林武史とのコラボ
1988年6月25日、デビュー10周年の記念となる日に24thシングル「みんなのうた」を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。加えてこのシングルから小林武史がアレンジ、プロデュース業を共に行うようになっている。同年に桑田はソロ活動で小林と共同プロデュースを行いソロアルバムをリリースしており、「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っている。また、KUWATA BANDのアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』で作詞を手掛けたTommy Snyderもサザンに合流した。

この時期から楽曲製作に関して「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー・マニピュレーター+レコーディング・エンジニア」という図式が見られるようになり、桑田以外のメンバーが干渉する割合が減ったと言われている。小林と桑田はさらに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた。

1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年7月21日に30thシングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31stシングル「涙のキッス」を2枚同時発売し、サザン、そしてオリコン初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。「涙のキッス」はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌となり大ヒット、サザンでは最高記録となる7週連続オリコン首位を獲得するなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した。この年には中国・北京で公演を行い話題となる。

1993年には32ndシングル「エロティカ・セブン」がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌となり再びミリオンを超える大ヒットを記録。そんな中1994年には桑田がソロ活動を再開し、サザンの活動は約1年間休止となった。

セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、34thシングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。これについて桑田は小林のアレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価しつつも、サザンの正規のメンバーを差し置いて小林に頼りすぎてしまうという意味で「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っていた。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林と桜井和寿 (Mr.Children) が中心となって活動するap bank fesへの出演など作品面以外での交友が続いている。

1995年に関口が長期の休養から復帰し、5月22日に35thシングル「マンピーのG★SPOT」で活動を再開。これ以降プロデュース名義は主にサザンオールスターズと表記されるようになった。直後に発売された36thシングル「あなただけを ~Summer Heartbreak~」はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌に使われミリオンセラーとなる。次の37thシングル「愛の言霊 ~Spiritual Message」でもミリオンセラーとなり、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。

しかし1997年あたりからライト層が抱えるイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠いハードロック、プログレなどを意識した曲を多くリリースし、同年の年越しライブ『おっぱいなんてプー』では桑田が「レアでコアでディープな選曲」と述べたようにマニアックな楽曲が中心となり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベスト・アルバムリリースブームの中、ベスト・アルバム『海のYeah!!』を発売し、大ヒットを記録した。しかしほぼ同時に発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や上記のハードロック、プログレなどを意識した作品であったため、過去のアルバム3作連続で記録したミリオンを僅かに下回る結果となった。1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したが、43rdシングル「イエローマン ~星の王子様~」は累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。

「TSUNAMI」記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日・27日、ファンクラブシークレットライブ『'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町』を行う。デビュー以来初めて本格的にライブハウスで行われ、初期のヒット曲・アルバム収録曲が多く披露され、往年のサザンファンを喜ばせた。また、アンコールのオープニングでは桑田が観客に「一緒に歌ってちょうだい」と呼びかけ、アコースティックギターの弾き語りで国歌「君が代」を観客と共に斉唱した。

翌2000年1月26日に44thシングル「TSUNAMI」を発売。サザンのシングルでは久々となった切ないラブバラードのこの曲は、当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり大ヒットし自身最高の累計293万枚を売り上げ、当時のオリコン歴代シングルランキングで3位にランクインした。かねて何度も逃した日本レコード大賞もこの年に獲得した。今作を機にサザンは長らく続いたセールス低迷から脱け出し、続く45thシングル「HOTEL PACIFIC」もヒットし、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ ~あなただけの茅ヶ崎~』を行った。

46thシングル「この青い空、みどり ~BLUE IN GREEN~」とベストアルバム『バラッド3 ~the album of LOVE~』が発売された直後に大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。桑田はシングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンセラーを達成した。以降、5年単位でサザンとしての活動とソロ活動を交互に行うサイクルをとるようになる。

25周年での活動再開、『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム発表
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げ発売から25年のブランクを置いてオリコンウィークリーチャートで1位を記録。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施した。

7月23日、47thシングル「涙の海で抱かれたい ~SEA OF LOVE~」をリリースし活動再開するとともに、5人での活動が本格的に始まる。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い復活をアピールした。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売し、10月からは2度目のドームツアーが行われた。2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催しサザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動した。2007年4月、桑田のソロ活動再開に伴い活動休止。

30周年、活動無期限休止
2008年1月にメンバーは「サザンという看板に頼らないで、サザンの活動だけをあてにしないで視野を広げていこう」という方針を決め、5月19日に30周年に伴う53rdシングル「I AM YOUR SINGER」の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。

この活動休止については、発表の当日にNHKの『おはよう日本』がこの活動休止についてを報じた他、民放各局で、報道や特集が大々的になされた。また、直前の2008年5月12日の東京スポーツ紙上で「サザン解散か」などといった誤った報道がなされたこともあり、ファン及び世間に動揺を与えることとなってしまい、桑田はその事への反省の弁を自身のラジオで述べ、活動休止の理由をつまびらかに語り、前述の騒ぎに対する謝罪や無期限休止への理解を求める発言をし、「(サザンの)解散は絶対にない」と断言した。

2009年から各自がソロ活動を行う。このソロ期間は、桑田の食道がんによる休養と闘病、東日本大震災の復興支援のための「チーム・アミューズ!!」結成や「宮城ライブ」の開催など、「これまでにない濃密な5年間」と振り返っている。2012年12月に、桑田とスタッフの間で35周年を迎えるにあたっての話が持ち上がったことがきっかけで、「ファンをはじめとした多くの人たちと、楽しめるときに大いに楽しもうじゃないか」とメンバー5人の気持ちが合致した。

35周年での活動再開
デビュー35周年の2013年6月25日に活動再開を発表。8月7日に54thシングル「ピースとハイライト」をリリースし、10日より全国コンサート・ツアーを開始した。2014年9月10日、55thシングル「東京VICTORY」発売。12月31日には第65回NHK紅白歌合戦にシークレットゲストとして31年ぶりに出演。2015年3月31日『キラーストリート』以来約10年振りとなるアルバム『葡萄』を発売。オリコン首位達成により1980年代、1990年代、2000年代、2010年代の4世代において首位達成となった。4月から全国ツアー「おいしい葡萄の旅」スタート。

2016年からの2年間は各自ソロ活動を行った。ちなみにソロ活動期間中の2017年はサザンとして「三ツ矢サイダー」のCMには出演している。

デビュー40周年を迎えた2018年6月25日、サザンの活動を再開する。