大杉漣のプロフィール
大杉漣(おおすぎ・れん)
生年月日:1951年9月27日
出身地:徳島県
日本の俳優、タレント。本名は大杉 孝。徳島県小松島市出身。明治大学中退。身長178cm、体重72kg。血液型はB型。ザッコ所属。長男は写真家の大杉隼平。
■来歴
<劇団活動との出会い>
1970年代に人気を呼んでいた、蜷川幸雄、寺山修司、唐十郎らの演劇に通い、1973年、雑誌『新劇』に掲載されていた太田省吾の記事に感銘を受け、太田の劇団員募集広告に応募し研修生として採用される。同年6月、22歳で別役実作品『門』の「娼婦を買いに来る客A」役で舞台デビューを果たした。1974年、23歳の時に太田省吾創設の転形劇場に入る。台詞なしに静かに舞台を歩んで演じる「沈黙劇」を原点として、舞台俳優としての本格的な活動を始め、転形劇場での活動に打ち込む。同劇場の演目『小町風伝』は岸田戯曲賞を受賞している。
<下積時代>
1980年に新東宝映画のピンク映画『緊縛いけにえ』で映画俳優としてデビュー。日活ロマンポルノや新東宝映画などのピンク映画に積極的に出演するようになった。
1983年、滝田洋二郎監督の『連続暴姦』では演技力が評価され、同年の「ZOOM-UP映画祭」・ピンクリボン賞主演男優賞を受賞した。また、翌1984年、周防正行監督の小津映画リスペクト作品『変態家族 兄貴の嫁さん』では、当時33歳の大杉が60歳超の老人役を演じ、静けさの中にも狂気をたたえた演技や風かおるとの独特の掛合いなどが評価された。その後も多数のピンク映画に出演したが、1988年の片岡修二監督の『地下鉄連続レイプ・愛人狩り』を最後にピンク映画への出演を控え、転形劇場における活動に専念した。
しかし、転形劇場は1988年に解散。大杉は37歳で活動基盤を失ったが、宮沢章夫作品や太田省吾作品への出演、岩松了作品における竹中直人とのコラボレーションなど、演劇界で活動を続けた。
<俳優としての転機>
1989年以降、再び映画界への進出を望んだが、希望する役を射止めることはできず、Vシネマなどに多数出演して収入を確保する生活が続いた。
40歳代に入り、種々のステップアップを図る一環として北野武監督による『ソナチネ』(1993年)のオーディションを受け、遅刻したにも関わらず合格。この作品での演技が転機となり、映画界において演技派の一人として知名度を得ていく。1997年には、SABU監督の『ポストマン・ブルース』でおおさか映画祭・報知映画賞を受賞。1998年-1999年にかけては、北野武監督の『HANA-BI』や、大谷健太郎監督の『アベックモンマリ』、崔洋一監督の『犬、走る DOG RACE』などにおいて実力を発揮し、1999年度の国内各映画賞の助演男優賞を多数受賞して、映画以外にもテレビドラマへの主役・主要キャストとしての出演が増加すると、その名は広く一般に認知されるようになった。
<300の顔を持つ男>
その後は、偉人群像から社会の底辺に生きる人物、公安刑事から体制破壊主義者、堅実なサラリーマンからホームレス、学校長からヤクザ、好人物から偏狭な人物、誠実な父親・夫から退廃的な不良中年、精神異常を思わせるサイコ色の強い異常人格から変態・エロ系の人物まで、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男」「カメレオン」などの異名を得る。以後は、高橋伴明、中村幻児、周防正行、滝田洋二郎、黒沢清、井筒和幸、廣木隆一等のピンク映画系出身の諸監督から、北野武、SABU、鈴木俊之、磯村一路、小松隆志、三池崇史、落合正幸など、日本映画界の多くの監督作品に登場している。
若い映画製作者への協力もしており、当時は新潟の一高校生にすぎなかった田卷源太監督による企画提案を受け、アマチュア自主製作短編映画『黒いカナリア』の主役として少ない報酬で出演したり、早稲田大学と慶應義塾大学の学生が中心となった自主制作映画『Mogera Wogura』へも出演している。
映画からNHK大河ドラマ、NHK連続テレビ小説、2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ、ドキュメンタリーのナレーション、バラエティー番組をはじめ、アジア圏の外国映画や内外合作映画にまで、各ジャンルに出演。その本数も多く、バイプレイヤーの代表格として極めて精力的な活動を行っている。
<バラエティ初レギュラー>
2017年1月2日に放送された『ぐるぐるナインティナイン新春ぐるナイ!ゴチ新メンバー超大物2名発表SP!』にて、人気コーナー「グルメチキンレース・ゴチになります!18」にレギュラー出演することが発表され、バラエティー初レギュラーが決定。2017年8月24日放送回では自身初のピタリ賞を獲得した。 2017年9月7日放送分にて、ゴチ史上初の2週連続ピタリ賞を獲得。
<受賞歴>
1984年
第5回 ピンクリボン賞 主演男優賞
1998年
第23回 おおさか映画祭 助演男優賞
第23回 報知映画賞 助演男優賞
1999年
日刊スポーツ大賞 助演男優賞
ヨコハマ映画祭 助演男優賞
高崎映画祭 助演男優賞
おおさか映画祭 助演男優賞 (2)
キネマ旬報個人賞 助演男優賞
毎日映画コンクール 助演男優賞
東京スポーツ映画大賞 助演男優賞
日本アカデミー賞 優秀助演男優賞
ブルーリボン賞 助演男優賞
<その他>
第11回 ベストフォーマリスト賞(2010年)
■人物
笠智衆の著書『あるがままに』(1992年、世界文化社)に感銘を受けたことから、好きな言葉は「あるがままに」。
芸名「漣」の由来は、吉祥寺フォークの重鎮高田渡の長男でスティールギター奏者である高田漣の名から拝借したものである。
役柄の数だけ眼鏡があるというほど眼鏡に関してはこだわりがあり、多数所有している。
ペットが大好きで、公式ブログのタイトルもスコティッシュフォールドの「トラ」とチワワの「風(ふう)」からとられている。
<趣味>
散策を好み、ロードバイクで一人下北沢、新宿、渋谷へ気ままに出かけるほか、18歳で上京後に最初になじんだ街であるという吉祥寺にはたびたび訪れるという。音楽とスポーツが主な趣味で、音楽ではフォーク、スポーツではサッカーをこよなく愛する。
また、50歳代に映画『Life on the Longboard』で「定年退職後サーフィンを始めた男」を演ずることになり、役作りとして種子島でサーフィンの猛特訓を行った経験から、サーフィンも趣味のひとつとなった。
その他、鑑賞、器楽(ギターおよびブルースハープ)、テニスなど。
<音楽>
エレファントカシマシのファンとして知られ、音楽鑑賞に留まらず、40歳代には田口トモロヲに誘われて器楽の練習を始め、自ら組んだ「大杉漣バンド」や田口トモロヲとのユニット「Har'G KAITELS(ハージー・カイテルズ)」(「恥をかいている者たち」の意)においてギターやブルースハープを手にとり70年代のフォークソングを演奏したり、KAZ BANDと共演している。
<サッカー>
高校時代にはサッカー部に在籍し、自称「釜本・杉山黄金コンビの時代の第一次サッカーブームの申し子」。また、「本当は今でも夢はプロのサッカー選手」だという。柳沢敦の大ファンで、国内リーグから海外リーグにまで精通している。トーク番組でタモリと共演した際に「サッカー観戦なら1日中朝から晩まで見てられる」と話して会場を驚かせた。
自己の出身地徳島県をホームタウンとするJリーグ・徳島ヴォルティスの熱狂的なファンで、チームがプロ組織化する前身の大塚FC時代から熱心に応援している。ヴォルティスがJ1昇格プレーオフ決勝を戦った2013年12月8日はテレビ朝日系のドラマ『緊急取調室』の撮影日だったが、主演の天海祐希をはじめとする共演者の協力により(試合開始前の)午後3時20分に撮影を終了させ、決勝の行われた国立競技場に駆けつけることが出来たという。
また、プロデューサーや映画監督・大物俳優等100名を越えるメンバーを擁するプライベートサッカーチーム「鰯クラブ」に発起人として参加し、キャプテンナンバー「10」の背番号を付けて月1-2回は必ず試合に出場するなど、注力している。
近年では、サッカーへの知識の深さが周知され、サッカー関連のテレビ番組等に招かれることも多い。2001年に行われたFIFAコンフェデレーションズカップ日韓大会では、日本戦全6試合の特別ゲストに招かれ、同じくゲストとして同席したアーセン・ベンゲル(アーセナルFC監督)から、「大杉さん、あなたが出演した映画『HANA-BI』をロンドンのムービーシアターで鑑賞させて戴きましたよ」と言われ、大変感激し、後にその事を自らのサッカーコラムで書いていた。また、2010年には、FC東京の城福浩監督(当時)との対談記事が『FC東京ファンブック2010』の巻頭を飾った。
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