毎日同じ質問を繰り返すだけだった私と、若い住人がくれた思いがけない返事
色鉛筆の缶とほうき
定年まで機械相手の仕事をしてきた私にとって、住人と言葉を交わすこの仕事は勝手が違いました。図面を引くのは得意でも、話の続け方が分かりません。前任の方が残した手引きにあった「お出かけですか」という例文だけが、失敗せずに済む言葉でした。エントランスの掃除は仕事でもあり、住人に会うための口実でもありましたが、ほうきを持って立っていても、出てくるのは毎回その1行だけでした。言葉の代わりに経路図を描いて各戸のポストへ配ることで、私は足りない分をごまかしていたのです。
ほうき越しの若い住人
半年ほど前に越してきた若い住人は、最初のうちは会釈を返してくれていました。それが少しずつ短くなり、やがてエントランスを通る姿を見かけない日が増えました。裏の階段を下りる靴音には気づいていましたが、原因が自分の質問にあるのだろうと思うと、確かめるのが怖くて、次の日も私は同じ言葉を繰り返しました。あの人のポストに入れた経路図にも、名前の1つを書き添えられませんでした。
名簿を抱えたまま
訓練の当日、消火器の実演のあとの片づけで、その住人が隣に来ました。経路図のお礼に続けて、毎朝の質問が気になっていたと打ち明けられ、私は名簿を抱えたまま、隠してきたものを白状しました。「決まった言い方しか、できなくてね」「気の利いた話が続かなくて。同じ言葉に逃げていました」。呆れられても仕方がないと思っていた私に、返ってきたのは短い返事でした。「私も、避けてばかりでした」。畳んだ椅子を壁に立てかけて、頭を下げる姿がありました。責める言葉を覚悟していた分、その返事の方に、私はうまく応えられませんでした。
そして...
翌朝、ほうきを持つ手の先を、あの人が通っていきました。「お出かけですか」。「いってきます」という返事を見送ってから、私は次に配る経路図の余白に、初めて自分の名前を書き入れました。
(60代男性・マンション管理人)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)
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