楽器がうるさいと匿名で苦情を出した私。届いた一通の招待状に、忘れていた音色が蘇った
壁越しに聞こえてくる音色
隣室から、かすかにヴァイオリンの音が聞こえるようになったのは、いつ頃からだったでしょうか。とても小さな音で、最初は気にも留めていませんでした。
ところがある日、若い頃に私が好きだった旋律が、その隣室から流れてきたのです。長くしまっていた記憶が一気に押し寄せ、台所で立ち尽くしてしまいました。それ以来、音が聞こえるたびに、自分が捨ててきたものの輪郭がはっきりと浮かんでくるようになったのです。
私は若い頃ピアノを習っていました。長く続け、ささやかな発表会にも出ていたのです。結婚と育児でやめてから40年余り、夫の帰りも遅く、日中はずっと物音のない時間を過ごしていました。
便箋に書きつけた言葉
何度も「うるさい」と思おうとしました。そう思えば、相手を責められる気がしたのです。けれど本当のところは違っていました。音色そのものが、私の心を引きずり出してしまうことが苦しかった。それを正直に言葉にする勇気が、当時の私にはなかったのです。
ある夜、便箋を取り出して書きつけました。
「マンションで楽器なんて常識がない。すぐにやめてください」
書きながら、自分でも嫌な人間だと思いました。けれど、もうあの音を聞き続けることに耐えられなかったのです。
翌朝、隣室のポストに差出人を書かずに投函しました。それからしばらく、隣室から音は聞こえなくなりました。安堵と罪悪感が、私の中で日々入れ替わっていたのです。
招待状を受け取った夕方
ある夕方、自宅のポストに白い封筒が入っていました。差出人は書かれておらず、中の文字は丁寧で柔らかいものでした。
「先日のお手紙、ありがとうございました。お騒がせしていたこと、心からお詫びします。もしご都合よろしければ、一度だけお聴きいただけませんか」
責められると覚悟していました。けれど書かれていたのは、謝罪と招きの言葉だったのです。
迷いました。行けば、また気持ちが揺さぶられるかもしれない。けれど一度はきちんと顔を見せて謝らなければと思ったのです。小さな焼き菓子の箱を手土産に、日曜の午後、隣室のチャイムを鳴らしました。ドアが開いたとき、最初にこぼれたのは「お手紙、ありがとう」というひとことでした。
そして...
お部屋に通され、「あれを書いたのは私です」と打ち明けると、あの方はそっとうなずいてくれました。子守歌のような曲を一曲だけ弾いてくれた後、私は窓のほうを向いたまま、しばらく動けませんでした。やがて「本当は、音色を聞くと、諦めた昔の自分を思い出してしまって」と、声を絞り出すように打ち明けたのです。
あの方は「もしよかったら、また聴いていただけませんか」と、まっすぐ私を見て言ってくれました。それから私は週に一度、隣室にお邪魔するようになりました。紅茶を飲みながら練習を聴き、若い頃のピアノの話を少しずつしています。「またお邪魔してもいい?」と帰り際に聞くたびに、あの方は柔らかく頷いてくれます。
「うるさい」と書いた便箋を、思い出すたび恥ずかしくなります。けれどあの手紙がなければ、私は今もひとりで、捨ててきたものから目をそらし続けていました。
(60代女性・主婦)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
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