本並健治
- 誕生日:
- 1964年9月23日
- 星座:
- てんびん座
本並健治のプロフィール
本並健治(ほんなみ・けんじ)
生年月日:1964年6月23日
出身地:大阪府
元サッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。元サッカー日本代表選手で、現在の妻は元サッカー女子日本代表選手の丸山桂里奈。
◆経歴
松下/ガンバ時代
清風高等学校、大阪商業大学を経て1986年、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。松下時代は1学年上の慶越雄二の控えであったが、慶越の移籍もあって正GKの座を奪取。
1993年のJリーグ発足後より、度々見せる鋭い反応や、自陣のぎりぎりまでも飛び出す攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となる。当時のG大阪は弱小チームであり、守備の弱さから本並の出番は多かった。
突然の大怪我と選手生命の危機
7月7日のサンフレッチェ広島戦において、後半終了直前のコーナーキックの競り合いで田口禎則と激しく接触し、腎臓破裂の重傷を負う。試合は、延長開始直後にVゴールを決められ、ガンバが敗れて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。本並は既に選出されていたJリーグオールスターの出場キャンセルは勿論、選手生命はおろか命の危機に晒されることとなった。手術では腎臓の4分の1を摘出した。
だが驚異的な回復力を見せ、7ヶ月後の翌1994年サントリーシリーズには再び正GKとしてピッチに立つ。ファルカンが監督を務めていた日本代表に選出されたのもこの年である。デビュー戦であるキリンカップのフランス戦では、後半から出場し、トンネルを含む2失点(後半からの出場、試合結果は1-4)を喫し、その後出場した2試合(1994年7月のアシックスカップのガーナとの2試合)でどちらも失点すると、以後代表から声は掛からなくなり、結局代表キャップは3に留まった。
クラブではその後もチームの顔として活躍し、1995年には日刊スポーツ紙上の「ミスター GAMBA 銀の脚」賞、1996年には「ミスター GAMBA 黄金の脚」賞を受賞。しかしヨジップ・クゼ監督との確執から、1996年の中盤以降は正GKの座を岡中勇人に明け渡し、出場機会が激減していた。
ヴェルディ時代
G大阪で出場機会に恵まれなくなった本並は、ヴェルディ川崎の誘いに応え1997年シーズン途中にレンタル移籍した。本並にとってはこれが学生時代も含めて初めての大阪以外のチームでのプレーでもあった。1997年シーズン終了後、G大阪からはコーチ就任を打診されたが[1]、現役続行を選び、1998年はV川崎に完全移籍した。この年までは菊池新吉の控えであり、特に1998年は起用されたのはリーグ戦1試合、天皇杯1試合のみであったが、1999年はシーズン前に菊池が腰痛を再発させたことからレギュラーに定着[1]、2001年を最後に引退するまで、Jリーグ創世記からの武器である鋭い反応で、第2期全盛期と言える活躍を見せた。
1999年11月には日本代表候補に選ばれたこともあったが、結局代表に選ばれることはなかった。Jリーグの通算出場は209試合。
現役引退後
2003年から吉本興業(後にホリプロ)とマネジメント契約を締結。サッカー中継で解説やリポーターなどを随時担当するほか、一時は『すぽると!』(フジテレビ)『GAMBA TV』『ちちんぷいぷい』(いずれも毎日放送)などのテレビ番組にサッカー解説者として出演していた。その一方で、2003年からは一時、京都産業大学や東海大学付属仰星高等学校のサッカー部でコーチを務めていた。
2005年にJFA公認S級指導者ライセンスを取得したことを背景に、2012年8月3日付でなでしこリーグ・スペランツァFC大阪高槻の監督に就任。シーズン途中からの半年契約で就任したが、当時成績が低迷していたクラブをなでしこリーグ1部に残留させたことから、シーズン後に改めて3年契約を結んだ。2013シーズンは1部の最下位(10位)でチャレンジリーグ(2部)への自動降格を余儀なくされたが、2014シーズンの2部優勝によって、1シーズンで1部に復帰。2015シーズンは9位ながら、ノジマステラ神奈川相模原との1部・2部入れ替え戦での勝利によって1部残留を決めたため、契約期間を1年延長した。しかし、2016シーズンも1部を9位で終了。さらに、ASエルフェン埼玉との入れ替え戦に敗れたため、クラブは再び2部へ降格した。契約期間の満了を理由に、2016年12月9日付で監督職を退任。翌2017年からは、千葉県立白井高等学校のサッカー部でコーチを務めている。
2020年9月4日に、スペランツァFC監督在任中の主力選手(FW)だった丸山桂里奈(ホリプロ所属のタレント)との婚姻届を東京都内の区役所へ提出。翌5日に「第31回東京ガールズコレクション」(さいたまスーパーアリーナ)へゲストモデルとして揃って出演すると、「本物の結婚式」をテーマに設けられた「マイナビウェディングステージ」で、神父役の前園真聖(サッカー日本代表選手時代のチームメイト)を前に結婚を初めて公表した。本並にとっては再婚、丸山にとっては初婚。本並はスペランツァFCの監督時代に、(丸山を含む)当時の所属選手全員に対して、公の場以外で2人きりにならないよう配慮していたという。本並は2016年の監督退任、丸山は同年の現役引退でスペランツァFCを退団した後に、ホリプロでの活動がきっかけで2020年から交際に至った。
◆人物
チームの中で、特に当時は弱小チームだったG大阪所属時には、再三のピンチを凌ぐ本並は注目されることが多かった。だが、自身は「GKが目立つというのは、それだけチームがピンチにさらされているということであり、決して好ましい状況ではない」と再三発言していた。さらに「銀の脚賞」に選ばれた際にも、「嬉しいが、本当は自分が選ばれないようにしないといけない」との旨のコメントを出している。またヴェルディ時代のインタビューでは、「チームが30点取り優勝し、そのうち1点を自分が決める」のが夢だと語っている。
◆エピソード
現役時代の愛車は紫のベンツである。前述した1993年の怪我の際には、負傷後チームメイトに初めてした電話の内容が、練習場に停めたままの愛車を心配するものだったという。
派手なユニフォームを纏っていた理由として、後年「GKは地味というイメージを変えたかった」と述べている。しかし、同時に「派手で目立つということは、相手にも自分の場所が分かりやすいということで、正直失敗だった」とも発言している。Jリーグ開幕直後に特注ユニフォームとして「昇り龍をプリントして欲しい」というリクエストを出したが、あえなく却下されたというエピソードもある。
基本的に敗戦ゲームで着用したユニフォームは次の試合で着用しないという験担ぎをしていたが、1994年のJリーグNICOSシリーズで連敗が続いた為、着用できるユニフォームが無くなってしまった。そこで仕方なく前年まで着用していたユニフォームを引っ張り出して着用し、難をしのいだ。
腎臓破裂から復帰した直後は、ウォームアップ時にはゴールマウス付近に清めの塩を撒いてからアップを開始し、試合中は特注の腎臓を保護するプロテクターを着用し試合に臨んでいた。(ただし、プロテクターは動きがしっくりこない為に短期間で着用しなくなった。)
阪神・淡路大震災の際には、チームメイトにも呼びかけ、被災者に救援物資を提供している。
同じくGKで、元ポルトガル代表のビトール・バイーアに顔がそっくりとしばしば言われ、自らもネタにしていた。
日本人離れした顔立ちだが両親は日本人であり、その容姿がネタにされ、1999年にはJOMO CUP Jリーグドリームマッチに外国人選抜登録選手チーム側で出場した。
現役時代は「浪速のイタリア人」(ヴェルディでの公式愛称は、明石家さんまが命名した「浪速のイタリアーノ」)の愛称で親しまれ、髪を染めることすら珍しかった当時に金髪にしたり、自分でデザインした鮮やかなユニフォームを着たりと、かなりの派手好きでも知られていた。一方、演歌と大相撲が大好きという古風好みな面もある。
学生時代、たこ焼きを食べる大会があり、その際に240個を平らげ、優勝した事がある。
◆所属クラブ
清風高校
大阪商業大学
1986年 - 1998年 松下電器/ガンバ大阪
1997年 ヴェルディ川崎(期限付き移籍)
1998年 - 2001年 ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
◆代表歴
試合数
国際Aマッチ 3試合 0得点(1994)
◆指導歴
京都産業大学 ヘッドコーチ
東海大学付属仰星高等学校 コーチ
2012年8月 - 2016年 スペランツァFC大阪高槻 監督
千葉県立白井高等学校 外部コーチ
◆監督成績
2012年 なでしこリーグ 8位 9試合 11勝ち点 3勝2分4敗 なでしこ杯:グループリーグ敗退、皇后杯:3回戦敗退
2013年 なでしこリーグ 10位 18試合 4勝ち点 0勝4分14敗 なでしこ杯:グループリーグ敗、皇后杯:3回戦敗退
2014年 チェレンジリーグ 優勝 22試合 53勝ち点 16勝5分1敗 皇后杯:2回戦敗退
2015年 なでしこリーグ 9位 24試合 20勝ち点 4勝5分15敗 皇后杯:3回戦敗退
2016年 ディビジョン1 9位 18試合 11勝ち点 3勝2分13敗 なでしこ杯:グループリーグ敗退、皇后杯:2回戦敗退
2012年は途中就任。
2015年は入れ替え戦でノジマステラ神奈川相模原に勝って1部に残留。
2016年は入れ替え戦でちふれASエルフェン埼玉に敗れて2部に降格。
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