加山雄三(かやまゆうぞう)

誕生日:
1937年4月11日
星座:
おひつじ座
画像 記事 プロフィール

加山雄三の関連リンク

加山雄三に関する画像

加山雄三に関する記事

  1. 朝ドラ「おむすび」松平健、カラオケ熱唱シーンに反響「カバーが聴けるなんて」「歌上手すぎる」

    モデルプレス

  2. <紅白リハ1日目>年内コンサート活動引退の加山雄三、ラスト紅白へ意気込み 今後の音楽活動にも言及

    モデルプレス

  3. 加山雄三、国技館ステージで“最後のサライ”熱唱 二宮和也と対談で思い語る<24時間テレビ45>

    モデルプレス

  4. 二宮和也、加山雄三とSP対談実現「サライ」制作秘話・引退の理由に迫る

    モデルプレス

  5. 加山雄三、小脳出血で芸能活動を自粛<本人コメント>

    モデルプレス

  6. 加山雄三、脳梗塞で入院

    モデルプレス

加山雄三のプロフィール

生年月日:1937年4月11日
出身地:神奈川県
血液型:A型

■経歴

父は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子(池端具子)。妹は池端亮子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。

神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷の家に生後8か月まで、次の東京都大田区田園調布には1歳9か月までいた[2]。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、子煩悩な父・上原謙は息子のために、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎へ引っ越した。加山が覚えているのは、この茅ヶ崎の家からである。海と茅ヶ崎駅の中間辺りにあって平屋の日本家屋だった。お手伝いさんは必ず2人はいた。茅ヶ崎市の実家には31歳で結婚するまで過ごした。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学法学部政治学科へ進み卒業後の1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍。

1961年、「夜の太陽」で歌手デビュー。NHK『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。

ソングライターとしてのペンネームは、加山が尊敬している團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った弾厚作(だんこうさく=ドン・コサック)であり、同名義で作曲(稀に作詞もある)している、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングである「サライ」・「勇気のカタチ 〜私を変えてくれたあなたへ〜」は谷村新司が作詞し、加山が作曲したものである。

■芸名

加山雄三という芸名の由来は、「加賀(百万石)・(富士)山・英雄・小林一三」から一文字ずつ拝借したものと東宝のデビュー会見で報じられている。

しかし若大将シリーズの時期には大学時代の成績が可が山程あって優が3つしかなかったので「可山優三」をもじって命名したと揶揄された。慶應義塾大学では成績の評価は「優・良・可」法ではなく「A・B・C」法なのでその説に異を唱える向きもあった。

そして、これまで説明されて来た由来は作ったものであり、実際には加山の母方の祖母(江間光子、芸名青木しのぶ)が姓名判断で縁起のいい芸名をつけてもらったことを加山自身が著書で明らかにしている。


出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Text is available under GNU Free Documentation License.