千葉真一 ちばしんいち

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千葉真一のプロフィール

千葉 真一(ちば・しんいち)

生年月日:1939年1月22日
日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。

日本を代表する映画スターとして海外ではSonny Chiba (サニー ちば)の名で知られている。特技の器械体操や極真カラテ四段・少林寺拳法弐段・乗馬・スキーを活かしたアクロバティックなスタント・擬斗・殺陣に定評がある。吹き替えに頼らないで自ら演じるアクションスターの元祖ともいえる存在で、映画・テレビドラマ・演劇・コマーシャルメッセージと半世紀以上にわたり、幅広く活躍している。愛称 : 千葉ちゃん。ジャパンアクションクラブ (JAC) の創始者。

■来歴
オリンピックを目指して
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。4歳の時、千葉県君津市へ転居。(⇒ #家族 )

中学生から器械体操を始め、オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、千葉県立木更津一高へ入学後、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。1957年、日本体育大学体育学部体育学科に進学。2年生の時に、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう。練習とアルバイトの掛け持ちで身体を酷使していたことも加わり悪化し、医者から「1年間運動禁止」と宣告された。1週間も練習を休めば差がつくこの時期に、選手を続けることが困難となる。休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学した。 将来を模索し始めた千葉は実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かける。地元に戻り、相談した親友も賛成してくれたことや、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募した。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられたが、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす。(⇒ #器械体操 )

アクションスター
1959年、大学を中退して、東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。(⇒ #変身ヒーロー )

1961年、中山昭二の代役で映画『警視庁物語 不在証明(ありばい)』に出演後、深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出された。吹き替えなしでスタントをこなすことから、「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」と期待される新人であった。(⇒ #アクション映画 )

1962年は映画『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、1963年には映画『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇初出演や『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演。シングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たした。(⇒ #音楽 )

1966年、映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)、映画『海底大戦争』(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、後に『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日香泰韓合作)、『激殺! 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、諸外国との共同作品に主演するきっかけになった。その合間に前年のテレビドラマ『くらやみ五段』、遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演していた。(⇒ #アクション映画 )

1968年からテレビドラマ『キイハンター』に主演。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた。(⇒ #キイハンター ・#ファン )

転機
1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演。同年の京都市民映画祭では本作で主演男優賞を獲得。

詳細は「日本暗殺秘録」を参照
1970年、アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、アメリカ映画で活躍するような俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、ジャパンアクションクラブ (JAC) を設立。(⇒ #JAC )

1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』で演じた大友勝利はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている。『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘映画となる主演作品『ボディガード牙シリーズ』(1973年)の撮影に入り、続けて主演映画『殺人拳シリーズ』もクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。これ以降は格闘映画で主演作品が製作されていき、学生時代から極真カラテを修行して、黒帯を允許された技量が生かされることとなった。(⇒ #ヤクザ映画 ・#空手道 )

Sonny Chiba
1973年に封切公開された映画『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、『地獄拳シリーズ』(1974年)、『少林寺拳法』(1975年)、『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)と、前後して『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、小説・劇画を映画化した『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)、1977年は『空手バカ一代』、『ドーベルマン刑事』、『ゴルゴ13 九竜の首』など数々の映画に主演。テレビドラマ『キイハンター』と同様のスタントに、空手道・拳法・器械体操などが加わり、アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博した。

とりわけカラテをメインにした格闘映画は世界的に大ヒットし、海外の著名人ファンが多い。この頃から海外ではSonny Chiba (サニー ちば)という名前で認知されるようになる。アメリカ合衆国では最も権威のある総合情報週刊誌「Variety 」の1974年12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げた。(⇒ #格闘映画 ・#ファン )

上記以外の映画やテレビドラマ『ザ・ボディガード』、『ザ★ゴリラ7』、『燃える捜査網』、『大非常線』にも主演し、若手の育成に追われる日々となったが、1976年の映画『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。1977年4月にハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。「前アメリカ東海岸空手チャンピオンのグレッグ・カーフマン」という180cm以上ある黒人で対戦相手を、第2ラウンドに二段蹴りでKO勝ちを収めた。(⇒ #空手道 )

ジャンルを越えた活躍
名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していたが、1978年から本格的に時代劇へ進出する。主演映画『柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的大ヒットし、1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した。柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演映画『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、映画『赤穂城断絶』(1978年)、『里見八犬伝』(1983年)などにも出演。特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、テレビドラマ『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛三厳と、傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、十八番である。(⇒ #時代劇 )

1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円のヒットをした。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE- 』は自ら企画し、前年の『忍者武芸帖 百地三太夫』と『吼えろ鉄拳』(1981年)は俳優とアクション監督を兼ね、『燃える勇者』ではアクション監督に専念。1989年の『将軍家光の乱心 激突』では再びアクション監督と俳優を兼務したが、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション映画の全盛期を牽引していた。(⇒ #アクション映画 )

この頃は演劇にも進出し、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めたミュージカル『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、JAC ミュージカルとして定期的に公演した。(⇒ #演劇 )

1970年代から1980年代にかけて、テレビドラマ『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)のホームドラマにも主演。1982年には楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。(⇒ #音楽 )

海外進出

ハワイ国際映画祭(2005年)
日本と諸外国との合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』、『海底大戦争』、『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』などに主演し、『武士道ブレード』(1981年、英米合作)にも出演していたが、既述のとおり本格的な海外作品への出演を認めてもらえず、関係者に「あきらめた」と思われていた。しかし水面下のアピールや主演映画の評判などで、1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていた。折しもロサンゼルスでは映画『激突! 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演格闘映画がリバイバル公開されていた。(⇒ #格闘映画 )

1991年、ジャパンアクションクラブ(JAC)の売却を経て、1992年にアメリカ映画『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移して、アメリカでも俳優活動をするようになり、グリーンカードも取得した。日本未公開作品のアクション映画もあるが、長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されている。(⇒ #ハリウッド )

1998年に出演した香港映画『風雲 ストームライダーズ』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。

2003年、友人でもあるクエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』シリーズでは出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。(⇒ #ハリウッド )

2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えた「MAVERICK AWARD 」を受賞した。2006年3月、福島県会津若松市にある會津藩校 日新館を運営する会社の取締役に就任し、9月には映画撮影所「日新館会津撮影所 武士乃陣」をオープンさせた。

2007年には英国放送協会 (BBC)製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリー番組『Japanorama 』に出演。「Densetsu (Legends )」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、4月9日に放送された。同年の大河ドラマ『風林火山』に板垣信方役で出演。 11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba (JJ サニー チバ)を日本でも使うようになり、和千永 倫道(わちなが りんどう)の名で、映画監督業への進出を表明した。母親の旧姓・和智永(わちなが)と千葉を併せ、「人の道」を由来としたものである。11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命された。

2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた。

2010年以降
2010年10月22日には東京・グランドプリンスホテル赤坂で、結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開いた。もともとはアントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本KID徳郁・横峯良郎・ラモス瑠偉ら計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、千葉の要望で記念式典と合わせて企画された。前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、長男の俳優・真剣佑と次男からも千葉夫妻へスピーチが行われた。後半の記念式典では出演した260本の映画・テレビドラマなどが順に紹介され、息子達と空手道の演武で型と杉板の試割りを、まな娘の女優・真瀬樹里とは殺陣を披露した。勝野洋・小堺一機・夏樹陽子らは花環を贈呈し、出席者に上記発起人ほか、太田昭宏・北島三郎・関根勤・高岡早紀・高橋和也、デヴィ・スカルノ、南部虎弾、ビリー・ブランクス、堀田眞三・魔裟斗・松木安太郎ら、多数の芸能人を含む各界から約600人がお祝いに集まった。千葉は「あっという間の50年だった。まだまだ、やり残したことがあるので精進したいと思う。ハリウッドで日本の俳優を育てたい」と新たな目標を掲げた。

2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一に戻し、海外ではJJ Sonny Chiba としている。同年9月29日から10月2日にロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催された、アジア・アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011 」(ビッグフット・エンターテインメント主催)では、LIFETIME ACHIEVEMENT AWARD を受賞し、代表作の一つである『魔界転生』が上映された。授賞式には長女の真瀬樹里、長男・真剣佑、次男も駆けつけ、息子たちは空手を、千葉と真瀬は殺陣を披露し、集まった多くのファンをわかせた。同年11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修をした。(⇒ #ハリウッド )

2013年3月10日、日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた。

2014年のテレビドラマ『おわこんTV』に主演し、テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす名物社長を、存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じた。同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となっている。
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