内田篤人(うちだあつと)

誕生日:
1988年3月27日
星座:
おひつじ座
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内田篤人のプロフィール

内田 篤人(うちだ・あつと)

生年月日:1988年3月27日
出身:静岡県

■来歴
・プロ入り前
函南中学校時代は目立った活躍をしていなかったが、高校入学にあたり静岡県中部地区の強豪校を志望し、将来の大学進学も視野に入れて進学校でもある清水東高等学校に入学した。高校へは自宅から1時間半ほどかけて通学していたという。

高校の同級生には多々良敦斗、2学年上には菊岡拓朗や荒田智之がいる。卒業に際しては7-8クラブから興味を示され、2006年に鹿島アントラーズへ加入した。

・鹿島アントラーズ時代
2006年から監督に就任したパウロ・アウトゥオリに高く評価され、Jリーグ開幕戦(対広島)でクラブ史上初となる高卒ルーキーでのスタメン出場を果たし、ドリブルから先制点となるPKを獲得。続く第4節甲府戦では、ドリブル突破からの先制点でクラブ史上最年少得点を記録し、2点目もアシストした。なお、17歳11か月22日でのプロ初得点は、当時の記録である18歳1か月15日を上回り高卒ルーキーの史上最年少得点記録であった。また、同年のJリーグオールスターサッカーではDF最多得票で史上最年少出場を果たしている。

2007年に名良橋晃から指名され背番号2を引き継いだ。2008年には自身初のJリーグベストイレブンに選出されるなど評価を高め、同年のシーズンオフには鹿島と4年半の長期契約を結んだ。2009年、鹿島は史上初のJリーグ3連覇を達成し、内田自身も2年連続でJリーグベストイレブンに選出された。

・シャルケ04時代
2010年7月1日に移籍金推定1億5000万円でドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04へ3年契約で完全移籍した。代理人は小野伸二、大迫勇也らと同じ秋山祐輔。移籍当初は代表戦での負傷もあり低調な滑り出しとなったが、秋には右サイドバックのレギュラーに定着した。11月24日のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)グループステージ第5節リヨン戦では、相手DF3人を鋭く抜きながらの正確なアーリークロスをクラース・ヤン・フンテラールへ上げCL初アシストを記録し、B組1位通過での決勝トーナメント進出に貢献。CL決勝トーナメント1回戦でバレンシアを破ると、準々決勝では長友佑都が所属するインテルと対戦し、CL初の日本人対決を実現させた。シャルケは両試合とも2-5、2-1で圧勝し、内田は『EURO SPORT』が選ぶCL準々決勝第1戦のベストイレブンに選出された。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では敗れたものの、CLベスト4という記録はクラブ史上、また日本人としても初めてのことであった。なお、内田はグループリーグのハポエル・テルアビブ戦(ホーム)以降10試合連続フル出場を果たしている。5月21日にはDFBポカール決勝のMSVデュースブルク戦に途中出場し、移籍後初タイトルを獲得した。

2011-12シーズンは開幕前の怪我やコンディション不良、さらに新加入のマルコ・ヘーガーの好調ぶりと右太もも肉離れが重なったことで前半戦は定位置を失いかけたものの、後半戦はレギュラーの座を取り戻した。

2012-13シーズンは開幕前に契約を2015年6月まで延長した。シーズン当初は扁桃炎の影響で出遅れたが、コンディションが整うと定位置を確保し、11月3日に行われた第10節TSG1899ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた。好調なチームの中にあってジェフェルソン・ファルファンと共に構成する右サイドはシャルケのストロングポイントとなった。
2013年1月にはブンデスリーガの英語版公式HPが選ぶ2012年のベスト11に選ばれ、5月には同HPにて2012-13シーズンのベストイレブンに選出された。一方で、前シーズンに痛めた右太もも裏の肉離れでチームからの離脱を繰り返し、11月6日のCLアーセナル戦、12月15日のフライブルク戦、2月6日の日本代表ラトビア戦でそれぞれ患部を痛めた。復帰戦となった3月9日のドルトムント戦ではクロスからのアシストを2度記録しルールダービーでの勝利に貢献した。

2013-14シーズンも前半戦は安定したプレーを続けていたが、年明けの2014年2月に右太ももを痛め戦線離脱し、シーズン内に復帰することはできなかった。

2014年10月30日、シャルケと2018年6月までの新契約を結んだ。直後の第10節FCアウクスブルク戦では、今季2アシスト目となる決勝点をアシストした。前半戦は4節まで負傷していたが13試合に出場し、ブンデスリーガ公式サイトのベストサイドバックに選ばれた。

2014-15シーズンは、シーズン序盤と終盤戦は右膝を痛めた影響で戦列を離れたが、レギュラーの座は譲らなかった。2015年3月初旬、対ホッフェンハイム戦で膝蓋腱を負傷し戦線を離脱。そのまま2014-15シーズンを終え、シーズンオフの同年6月に右膝の手術を行う。

その後、迎えた2015-16シーズンはドイツや日本国内でリハビリに励んだが十分な回復に至れず、とうとう一試合も公式戦に出場できないまま同シーズンを終える事となった。また日本代表でもほとんどの試合で招集が見送られ、内田にとってかつてない異例の状況が続いていた。

暫くの間は古巣の鹿島アントラーズの施設をリハビリ活動の拠点としていたが、2016年7月上旬にシャルケのチーム練習に合流。しかし翌8月中頃、シャルケのアクセル・シュースターSDが「内田に関しては残念ながら状態が少し後退した。」とコメント、同時期のクラブ公式ツイッターでも「内田篤人は短期間日本に向かい、そこで彼が信頼する医師の治療を受けることになる」と発表があった。2016年12月8日、欧州ELのレッドブル・ザルツブルク戦で途中出場し、1年9カ月ぶりに復帰を果たした。

・ウニオン・ベルリン時代
2017年8月21日、出場機会を求め、シャルケからブンデスリーガ2部の1.FCウニオン・ベルリンに2018年6月までの1年契約で完全移籍することが決定した。

・日本代表
2004年にAFC U-16選手権に向けて日本サッカー協会が主催した早生まれの選手を対象としたセレクションで、そのスピードが関係者の目に留まりU-16代表に招集され、豊田国際ユースサッカー大会とAFC U-17選手権2004に出場。この時は右サイドハーフとしてプレーしていたが、その後清水東高校でスピードを生かすためにサイドバックにコンバートされた。プロ入り後、2007年7月のFIFA U-20ワールドカップでは右サイドバックとして全4試合にフル出場。その後、2008年8月には北京オリンピックに出場した。

2007年にフル代表候補の合宿に初招集され、2008年1月26日のキリンチャレンジカップチリ戦でフル代表デビューした。19歳305日でのデビューはJリーグ発足後では市川大祐、小野伸二、梅崎司に次いで4番目の若さであった。同年2月6日にはJリーグ発足後10代の選手としては初めてワールドカップ・アジア3次予選グループ2第1戦タイ戦にスタメンフル出場を果たし、6月22日には同3次予選第6戦最終戦のバーレーン戦で代表初得点を決めた。2010年6月の2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーにも選出されたが、本大会直前に岡田武史監督が守備を重視する戦術に転換したことや体調不良により、右サイドバックのポジションを守備の評価の高い今野泰幸、今野の負傷後には攻守にバランスのある駒野友一に奪われ、本戦出場は叶わなかった。

アルベルト・ザッケローニ監督就任後は再びレギュラーに返り咲き、2011年1月のAFCアジアカップ2011では主力メンバーとして優勝に貢献した。

2014年には2大会連続でのFIFAワールドカップメンバーに選出され、本大会では全試合スタメンフル出場したが、チームはグループリーグで敗退した。

ワールドカップ終了後に代表引退を示唆したが、11月のキリンチャレンジカップでハビエル・アギーレ体制の代表に復帰した。12月、AFCアジアカップ2015の代表メンバーに選出されたが、右膝の怪我により出場を辞退した。

■所属クラブ
・ユース経歴
- 1999年 函南SSS
2000年 - 2002年 函南町立函南中学校
2003年 - 2005年 清水東高校

・プロ経歴
2006年 - 2010年6月 日本 鹿島アントラーズ
2010年7月 - 2017年8月 ドイツ シャルケ04
2017年8月 - ドイツ 1.FCウニオン・ベルリン

■タイトル
・クラブ
鹿島アントラーズ
Jリーグ ディビジョン1:2007年、2008年、2009年
天皇杯全日本サッカー選手権大会:2007年
FUJI XEROX SUPER CUP:2009年、2010年

シャルケ04
DFBポカール:2010-11
DFLスーパーカップ:2011

・代表
AFCアジアカップ:2011

・個人
Jリーグベストイレブン:2008年、2009年
ブンデスリーガ公式HP・ベストイレブン:2012-2013, 2013-14

■代表歴
フル代表初出場 - 2008年1月26日 キリンチャレンジカップ vsチリ (国立競技場)[3]
フル代表初得点 - 2008年6月22日 2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 vsバーレーン (埼玉スタジアム)

・出場大会
U-16、U-17日本代表
AFC U-17選手権2004 (予選敗退)
U-18、U-19、U-20日本代表
AFCユース選手権2006 (2位)
2007 FIFA U-20ワールドカップ (ベスト16)
U-22、U-23日本代表
アジア男子サッカー2008 最終予選 (北京オリンピック2008最終予選)
北京オリンピック (グループリーグ敗退)
日本代表
東アジアサッカー選手権2008 (2位)
東アジアサッカー選手権2010 (3位)
2010 FIFAワールドカップ (ベスト16)
AFCアジアカップ2011 (優勝)
FIFAコンフェデレーションズカップ2013 (グループリーグ敗退)
2014 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)

・試合数
国際Aマッチ 74試合 2得点 (2008年 - )

・ゴール
1.2008年6月22日 日本、埼玉 バーレーン 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選
2.2014年5月27日 日本、埼玉 キプロス キリンチャレンジカップ2014

■出演
・テレビドラマ
ビブリア古書堂の事件手帖 第1話(2013年1月14日、フジテレビ)- ハローワーク相談員役

・声優
ポケモン・ザ・ムービーXY 破壊の繭とディアンシー(2014年) - ウッシー役

・CM
ソニー 「BRAVIA」(2010年)
ACジャパン(2011年)
江崎グリコ 「Bitte」(2013年)

・PV
May J.「本当の恋」(2014年)

・イメージキャラクター
常陽銀行(2007年 - 2010年)
コーセー「adidas skin protection」(2010年)
第90回全国高等学校サッカー選手権大会応援リーダー(2011年)

■関連作品
・書籍
『僕は自分が見たことしか信じない』(幻冬舎、2011年)
『淡々黙々。』(幻冬舎、2014年)※三村祐輔との共著

・DVD
ATSUTO UCHIDA LIKE A ROLLING STONE(2010年)

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Text is available under GNU Free Documentation License.