小学生の敬礼から目をそらしていた駅員の僕が、夏の終わりに初めて手を上げた理由
モニターに逃がした視線
駅員になって2年目の春から、この小さな駅で改札の窓口に立つことになりました。その春、案内を間違えて、乗客の方を1本遅い電車に乗せてしまったことがあります。頭を下げても取り戻せない遅れに、自分はこの仕事に向いていないのではと考えるようになりました。
男の子とお母さんが始発に現れたのは、ちょうどその頃です。初めての日、男の子は改札を通り抜けるなり振り返り、「おはようございます!」と敬礼しました。
とっさに、改札機のモニターへ視線を移しました。あの敬礼は、堂々と制服を着こなす駅員に向けたものだと思えたからです。間違えてばかりの自分が、手を上げて返していいとは思えませんでした。それからは敬礼のたびに、モニターを確認するふり。
姿を見せなくなった親子
夏に入り、退職届の下書きを書きました。ロッカーの小さなカレンダーに印をつけたのは、8月の最後の勤務日です。
その少し前から、親子が始発に姿を見せない日が続きました。1日、2日と過ぎるうちに、電車の時間が近づくと階段のほうばかり見ている自分に気づきました。目をそらし続けてきた敬礼を、いつの間にか待っていたのです。
理由も分からないまま5日が過ぎ、印をつけた日が来ました。その日、階段の下から、あの小さな足音が聞こえてきたのです。
帽子のつばに上げた右手
男の子が改札の内側でこちらに向き直り、「おはようございます!」と敬礼しました。気づいたときには、右手が帽子のつばの位置に。「おはようございます」
男の子は目を丸くして、先を歩くお母さんの背中へ駆けていき、振り返ったお母さんが改札に向かって深く頭を下げました。退職届を出すはずの日は、こうして過ぎたのです。
秋になると、始発に見慣れない女性が加わりました。ある日、男の子が落とした定期入れをその女性が拾い、ホームのベンチまで届けてくれました。窓口から見えたのは並んで話す2人の姿だけで、何を話しているのかまでは届かない距離でした。お母さんが一度、改札のほうに目を向けたことだけは覚えています。
そして...
次の日、その女性が改札を通りながら「おはようございます」と声をかけてくれました。返すのが少し遅れてから、「おはようございます」と答えました。
退職届の下書きは、出すことも捨てることもできないまま、ロッカーの奥に戻したきりです。来年の春もこの改札に立っているのか、まだ決めきれていません。それでも始発の少し前になると、帽子のつばの位置を一度確かめるようになりました。
(20代男性・駅員)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)
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