西城秀樹(さいじょうひでき)

誕生日:
1955年4月13日
星座:
おひつじ座
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西城秀樹のプロフィール

西城 秀樹(さいじょう・ひでき)

生年月日:1955年4月13日
出身:広島県
血液型:AB型

■来歴
広島県広島市、広島駅近郊の東蟹屋町(現:東区 東蟹屋町)に誕生する。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通ってドラムを勉強した。小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベックで、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした。小学5年生の時にその兄とエレキバンドを結成、小学生ドラマーとして活動した。ベンチャーズ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、シカゴ、ジャニス・ジョプリンなどの洋楽に影響を受け、1971年のレッド・ツェッペリン広島公演もバンド仲間と観戦。歌謡曲は聴いてなかった。中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地のライブハウスなどにも出演し、1969年の『ウッドストック・フェスティバル』は、そこでテープを録ってもらった物を観た。強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴにつながったと話している。岩国基地が近辺にあったため、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている。

山陽高等学校生徒時代、ジャズ喫茶でバンド出演時に、たまたま歌っていたところをスカウトされる。本来、歌手には興味がなかったが、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対。その反対を押し切り、家出同然で広島から上京。芸能事務所「芸映」に所属。明大中野高等学校定時制へ転校する。

1972年3月25日、ビクター音楽産業 (RCA) よりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。

1973年6月25日、「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれる。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。

1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露。「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。

1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、阿久悠の作詞、三木たかしの作曲のコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「炎」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し、その後11年連続で開催する。“秋(静)の日本武道館”と“夏(動)のスタジアム・コンサート”は恒例となる。

1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う。

1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる。

『NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲(154週)ランクインした。

2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。

私生活では、大阪在住の(元)会社員だった女性と2001年6月30日に結婚。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。

2003年6月21日に85枚目のシングルを発表した直後、公演先の韓国で脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。2011年12月20日、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた。

2018年5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去。63歳没。

■年表
・1972年 - 1975年
1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。オリコン42位。順風満帆なスタートとはいかなかった。2枚目のシングル「恋の約束」は18位、徐々にファンを拡大。続く「チャンスは一度」で振付けが付く。アクション・ブームの始まり。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。5月27日、ユネスコ村での「情熱の嵐」キャンペーンで、空からヘリコプターでド派手に登場して話題をさらう。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った。8月26日、『日劇ウエスタンカーニバル』に出演。

1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなる、オリコン1位(47.5万枚)を獲得。歌唱力を発揮。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のCMが放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!』を開催。12月8日 - 12月9日、名古屋・名鉄ホールにてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、『第24回NHK紅白歌合戦』は落選。この頃はまだ、他にはない規格外の声量や派手なアクションへの評価が分かれていた。

1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、TBS『火曜歌謡ビッグマッチ』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められ[要出典]、西城がトリをつとめた。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。

1974年8月3日、日本で初めて、スタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から6年連続で) 開催。10月6日、広島郵便貯金ホールにてコンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催。10月19日 - 10月20日、東京・郵便貯金ホールにて第3回コンサート『We Love Hideki'74/新しい愛への出発』を開催。12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』も今度は文句なくトップバッターとして初出場。

1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』でグラフ賞を受賞。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」がカナダ、フランス、スイス、ベルギーで発売され、カナダではヒットチャート第2位にランクされた。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。

1975年10月10日、この年の7月20日 - 8月24日に開催された『全国縦断コンサートツアー』を追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP! HIDEKI)』が公開上映される。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う(以降1985年まで11年連続で開催)。「プロマイド」の年間総売上実績1位。以降1976年、1978年、1979年も男性歌手部門1位。歴代通算第1位獲得月数で新記録樹立。

・1976年 - 1979年
1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲「君よ抱かれて熱くなれ」、「ジャガー」、「若き獅子たち」は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼んでいた。2月29日、TBS『日曜スペシャル』で企画されたスタジオ・ライブ番組『セブンスターショー』に出演し、24%を超える視聴率を獲得。3月19日 - 3月28日、ハワイで、初の海外コンサート(ハワイ・ホノルル インターナショナルシアター)。

1976年6月5日発売の「ジャガー」で着用した臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となる。この衣装はアンルイスがアイデアを出したもの。この曲で6月27日に開催された『第5回東京音楽祭』世界大会に出場。8月14日、第3回大阪球場コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム'76 "情熱のファンキー・カーニバル"』を開催。10月19日、ニュー・ラテン・クォーターにて初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。

1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。『わが青春の北壁』(日生劇場)主演。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。

1978年2月9日、元旦発売の「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる。2月14日、『バレンタインコンサート』で新日本フィルハーモニーと共演。6月18日、「炎」で『第7回東京音楽祭』世界大会に出場、外国審査員団賞受賞。

1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。以降1984年までツアー名が「BIG GAME」で統一される。11月3日、第5回日本武道館コンサート『永遠の愛7章』を開催。12月19日、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得した「ブルースカイブルー」で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。12月31日、ピンク・レディー、沢田研二、山口百恵と並び『第20回日本レコード大賞』の最有力候補に挙げられるも逃す。

1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を唄い、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露。2月21日に発売され売り上げ80.8万枚の大ヒット(年間シングルチャート第7位)。8月18日、第6回大阪球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。8月24日、第2回後楽園球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。11月4日、第6回日本武道館コンサートを開催。第8回『ベストドレッサー賞』受賞。年末の賞レースは『第21回日本レコード大賞』、第12回『日本有線大賞』を除き、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。

・1980年 - 1984年
1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月12日 - 4月28日、日生劇場での特別ロングラン・リサイタル『限りない明日を見つめて』を開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ『坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。1980年時、後援会会員数、野口五郎6万人、郷ひろみ10万人、西城秀樹13万人。

1981年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月6日、「リトルガール」で30作目のベストテン入り(オリコン史上初)。続く「セクシーガール」でシングルレコードのトータルセールスが1,000万枚を突破(オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成、ピンク・レディー(1979年)、森進一(1979年)、山口百恵(1980年)、沢田研二(1980年)に続く史上5人目)。「セクシーガール」の発売キャンペーンも兼ね『BIG SUNSHINE '81』と題した沖縄・ムーンビーチでのコンサートを開催。海から水上オートバイにて登場。

1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。

1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として「南十字星」が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。

1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは「ギャランドゥ」。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。

1984年2月4日 - 3月25日、「低髄液圧症候群」という病名で東京女子医大病院に入院。桃井かおり、松田優作、原田芳雄が、面会謝絶を突破。松田聖子も見舞いに訪れた。4月1日、「Do You Know」で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。

1984年5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。共演は鳳蘭。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。20歳代最後のコンサートツアー『JUST RUN』は、コンピューターサウンドにレーザー光線、ターボサウンドスピーカーと当時のハイテクを駆使したステージ。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。

1985年 - 1994年
1985年1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を皇太子明仁親王と礼宮文仁親王の前でNHK交響楽団をバックに歌う。

1985年9月7日 - 9月11日、SFX特殊メイクや西城と同じ顔のマスクを付けたダンサーが登場する『MISTY TOUR』を開き、香港・シンガポール公演でも話題になった。このツアーのメインアルバム『TWILIGHT MADE …』は角松敏生がプロデュースを担当。ジャケ写に西城の姿を使わず、アーティスト色を出した。11月21日、「腕の中へ〜In Search of Love〜」でバリー・マニロウとのデュエットが実現(アーティスト名は「Hideki Saijo & Barry Manilow」)。

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開上映。

1988年、NHKみんなのうた「陽光の中の僕たち」歌唱。

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。

1990年、クイーン・エリザベス3世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。

1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。この頃からロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになる。[注 6]。 1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初主演。

1993年3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり、寺田恵子、沢田知可子、男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。

・1995年 - 1999年
1995年、阪神大震災の被災者のために数度神戸に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。

1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日、桑田佳祐との友好もあり、サザンオールスターズのコンサート『Hotaru California』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行。

1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。

1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。7月24日、子供の頃、ヒデキを見て育ったヒデキ大好きロックミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!』が発売される(参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWS、Gackt、橘高文彦、松岡充、真矢、ROLLY、MILLENNIUM EVE、サンプラザ中野、ダイアモンド☆ユカイ、森重樹一など)。

1997年8月6日、元X JAPANのYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。プライベートな飲み会の席でプロデュースを依頼したところ快く引き受けてくれたという。ロサンゼルスのYOSHIKI所有スタジオでレコーディング。

1998年4月、NHK総合『青春のポップス』(レギュラー司会)が始まる。

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ・機動戦士ガンダムシリーズ『∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。

・2000年 - 2009年
2000年3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。シドニーオリンピック・サッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。

2001年6月30日、大阪在住の一般OLと電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画『ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場・梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。

2004年3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演。7月2日、当時西城が在住していた川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[22]。以後、2007年を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。

2005年7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。

2006年9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。

2008年5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子、早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。

2009年3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説『つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。

・2010年 - 2018年
2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。

2015年4月11日、東京ビッグサイト(東京国際展示場・東6ホール)にて開催の東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞。

2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京・赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園。

2016年2月13日、西城が監修したソフトバンク「Y!mobile」のCMが放送開始。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。

■業績
西城は「歌謡曲の時代」を築いた人物の一人で、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニアである。また、日本のロックヴォーカリストの先駆者でもある。ヘヴィメタル誌『ヘドバン』は「ヒデキの絶唱を聴いてロックに目覚めた人、ヒデキの数々のカバーで洋楽に興味を持った人、グラハム・ボネットの「Night Games」のカバー「ナイトゲーム」を聴いてメタルに目覚めた人もいる。メタルがまだ世間という見えない敵と戦っていた時代に、僕らをメタルという重く閉ざされた門の前まで連れていってくれた“メタル歌謡”の生みの親」と評している。西城の功績として、日本の音楽史に於いてエンターテイメントの世界に、洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたことがある。西城自身、「それまでの人が演歌かムード歌謡だったから、今でいうJ-POPの原型を作ったという自負はある」と述べている。

・アクションと衣装
新御三家として売り出される際、郷ひろみは、"可愛いい美少年"、野口五郎は"歌が上手く"、その差別化を図り、西城の個性を活かすためどうすればいいか、スタッフで思案し、情熱的でセクシーな、男性的魅力を打ち出していこうと決まり、そのコンセプトに沿って、楽曲や振り付け、衣装が作り上げられた。西城の音楽的バックボーンをプロデューサーが理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた。派手でセクシーなアクションと長い脚が映える衣装がそのイメージを決定づけた。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた。

歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌うようになったのは70年代に入ってからで、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアは女性歌手では、山本リンダ、男性歌手では西城であった。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年。この年はNHKのカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた。松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き、1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた。1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れる。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した。ヒントにしたのはロッド・スチュワートとジェームス・ブラウン。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミのマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり、翌年にはヤマハが生産するようになった。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた。初期の頃のアクションは一の宮はじめが考案し、「激しい恋」の「♪やめろと言われても」の直後に両手を上げるアクションは、親しいおばさん同士がスーパーなどでたまたま会った時に見かける、両手を上げるような親しみやすい身振り手振りからヒントを得て考えたという。

・絶唱型
1973年、初めてオリコンの1位となった「ちぎれた愛」は、自身のハスキーな歌声を前面に押し出して歌い上げた初めての楽曲である。後にその歌唱法は「絶唱型」と呼ばれた[6][7]。理由については「単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、やはりロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う」と話している。さらに全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、その迫力で観客を圧倒した。西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった。広音域だが、音圧を充分に伴う実声で8ビートを体現した新たなタイプのシンガーであった。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。ハスキーな声でシャウトする歌唱は、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた。

・ファン参加型ライブ
コールアンドレスポンス
ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入り、舞台と客席が一体化する感触を自身でも感じ取った。女性ファンの圧倒的なパワーに曲のアレンジが変更を余儀なくされるケースもあり、こうした歌手とファンによるコール&レスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城が最初。男性アイドルへの女性ファンの熱狂に、ひとつのスタイルを作り上げた。

人文字振り付け
1979年「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたもので、同曲は西城自身が探し出した。レコーディングに訪れたロスでカーラジオから流れる「Y.M.C.A.」に、「これはいい曲だぞ」と心を奪われた。すごくノリがいいし、ステージでやってみたいと帰国後、試しにコンサートで「Y.M.C.A.」を原曲の英語で歌うと観客の反応も良かった。しかしヴィレッジ・ピープルは同性愛(GAY)を象徴するバンドとして有名で、「Y.M.C.A.」はゲイの応援歌として認識されていた。ヴィレッジ・ピープルが人気グループになったことでアメリカでもゲイが市民権を持つに至ったといわれた。西城は「この曲をカバーして、シングルを出したい」と、レコード会社に直訴するが「アイドルがこんな歌を歌えるわけ無いだろう!」と、担当者は全く取り合ってくれなかった。当時の日本では同性愛への偏見が大きかった時代背景もあり、レコード会社や所属事務所の力が圧倒的に強い時代でもあり、歌手本人の希望が通ることは少なかった。西城は絶対に諦めず、英語が堪能だった当時のマネージャー・あまがいりゅうじ(天下井隆二)に“若者に向けた応援歌(青春讃歌)”に歌詞を変えて、アレンジも自身が歌いやすいように変更し、"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するという人文字振り付けも西城自身が考案。題名も「ヤングマン」として何度もレコード会社に足を運び、西城の念願が叶い「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として発売された。リリース直後からたちまち火が付き大ヒットし、周りの態度も一変した。前年に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の日本公開でディスコ・ブームが到来していた矢先、素早くこのディスコミュージックに目を付け、西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスは社会現象にもなった。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する。それは初期から西城とそのスタッフが目指した"舞台と客席を一体化させる"参加型のライブが、究極の完成を見せた瞬間であった。ピンクレディーや海援隊、渋谷哲平、布施明、麻生よう子などフォロワー作品も登場し、ディスコカバーブームも巻き起こした。金子修介は1993年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をモチーフにした映画『卒業旅行 ニホンから来ました』を撮った。この曲以降、西城のいろいろな提案が通るようになり、自身も好きなことをやっていきたいと思うようになった契機にもなった。同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」も30万枚を超えるヒットを記録し、『第21回日本レコード大賞』は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールもあって逃したが、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを受賞。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆す先がけとなった。

・スタジアム・コンサート
21世紀突入後では一般的になった、スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城が最初であった。1974年夏、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース)。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し、日本で初めて導入したレーザー光線による演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている。

大阪球場は1974年より1983年まで10年連続(1978年から東京の後楽園球場でも開催)と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥。1974年の球場ライブで「なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった。

最初からバンドは作りたいという希望があり、1974年2月に日本武道館であったフェイセズの来日公演を観に行った際、前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け、自身のサポートバンドを要請。芳野が「藤丸BAND」を結成し以降、西城のライブでバックバンドを務めた。

1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた。

・ロックヴォーカリスト先駆者
新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない。メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちはスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。ことに西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントやイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである。歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた。さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった。宝泉薫は「色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたといわれた。

・洋楽カバー
"洋楽カバーの第一者"とも評され、所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーやバリー・マニロウらと交流し、デビュー当時から積極的に洋楽カバーを行った。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという。事務所やレコード会社の力が強い時代に於いて、比較的自身の好きなことが出来たライブでは、頭から10曲洋楽カバーを演ったこともある。バリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど、全曲自身でカバー曲の選定も行った。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している。

・アジア進出
1981年、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演。番組視聴率は90%を超えた。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・ホールで開催。新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された。プラチナディスクを獲得。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる。

1982年9月20日 - 9月25日、香港にて2回目のコンサートを開催。1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86 -』を開催。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している。

1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京・首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催。廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。

1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の東アジアの音楽業界の成長に大きな影響を与えた海外アーティストとして招かれ歌唱。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に出演し、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を披露。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

2012年9月16日、ブラジル・サンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。

・映画、TV、CM 他
夜のヒットスタジオ
フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード、見せ場を提供した。

1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。

バーモントカレーのCM
1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る。同製品の知名度を一気に高め、カレーライスの国民食押し上げに貢献した。季節に応じて3か月周期でCMの撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する。2015年に行われた還暦記念ライブでは、“ヒデキ、カンレキィ〜!”の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモンドカレーが来場者に記念品として配られた。なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のCMに起用されたことを喜んでいた。

寺内貫太郎一家
西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[54][70]『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている。後に小林がアニメ『∀ガンダム』(フジテレビ)の主題歌『ターンAターン』を担当した際、歌手として西城を指名し、作曲者と歌手という形ながら、久々にコンビの復活となった。

愛と誠
1974年の松竹映画『愛と誠』主演は、西城が『少年マガジン』連載中の漫画を読んでいて、映画化されると聞いて原作の梶原一騎に直談判し、主役の"太賀誠"役を勝ち取ったもの。人気絶頂の西城の相手役募集には4万人応募があり、西城の推薦により、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた。

ブロマイド
かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した。また大量に撮影したためポーズがワンパターンになり、唯一目を閉じたブロマイド販売したが、これが売れに売れた。

オールスター運動会・水泳大会
1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会・水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳、走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)。郷ひろみとの対決は番組のハイライトだったが、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城のビキニパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた。

ザ・ベストテン
『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した。オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している。

ウォークマン
1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城がウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が「週刊明星」に掲載されたのを機に、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる。

後進タレントの発掘
芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子と石川秀美がデビューした。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった。また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした。

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