安倍晋三 あべしんぞう

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安倍晋三のプロフィール

安倍 晋三(あべ・しんぞう)

生年月日:1954年9月21日
出身:東京都

日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、第96・97・98代内閣総理大臣(再登板)、第25代自由民主党総裁(同)。

内閣官房副長官、内閣官房長官、内閣総理大臣(第90代)、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第21代)を歴任。

成蹊大学を卒業後に米国留学、その後に神戸製鋼所社員、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。内閣官房副長官、自由民主党幹事長(第37代)、同幹事長代理、内閣官房長官(第72代)などを歴任。2006年(平成18年)9月26日に戦後最年少の52歳で自由民主党総裁(第21代)、内閣総理大臣(第90代)に就任するも、2007年(平成19年)に第21回参議院議員通常選挙での敗北と、体調の悪化を理由に同職を退任。2012年(平成24年)9月、自由民主党総裁に就任、同年12月26日に内閣総理大臣に就任した(他の内閣をまたいで再度就任した事例は、1948年(昭和23年)の吉田茂以来64年ぶり)。

■来歴
・政界入りまで
生い立ち
1954年(昭和29年)9月21日、当時毎日新聞記者だった安倍晋太郎と、その妻・洋子の次男として東京都で生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)である。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父には後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であり、安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。しかし、幼い頃は野球選手やテレビを見て刑事になることに憧れていた。

学生時代
成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業した。
小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていた。高校ではクラブは地理研究部に所属。高校卒業後成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され留学した。

会社員時代
1979年(昭和54年)4月に帰国し、神戸製鋼所に入社。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点」、あるいは「私の原点[9]」だったと回顧している。

・政界入り
秘書時代
神戸製鋼に3年間勤務した後、1982年(昭和57年)から当時外務大臣に就任していた父・晋太郎の下で秘書官を務める。1987年(昭和62年)6月9日、当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。媒酌人は福田赳夫夫妻が務めた。
1987年、参議院議員・江島淳の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長・二木秀夫が出馬を表明したことから晋太郎に断念するよう説得され立候補を見送った。

衆議院議員
1991年(平成3年)に総裁候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。1993年(平成5年)に父の地盤を受け継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選。当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)。1994年、羽田内閣施政下、社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加。首班指名選挙では村山富市に投票し自社さ連立政権・村山内閣樹立に貢献。1995年(平成7年)の自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人の一人になった。

内閣官房副長官
派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年(平成12年)の第2次森内閣で、小泉純一郎の推薦を受け[15]、政務担当の内閣官房副長官に就任。第1次小泉内閣でも再任した。
2002年(平成14年)、水野賢一が外務大臣政務官在任中に台湾訪問拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した(この拉致問題への対応により、内閣官房長官だった福田康夫との関係に亀裂が入ったといわれる)。西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。
また、北朝鮮対策として通信傍受法の要件緩和・対象拡大を主張した。

自民党幹事長
2003年(平成15年)9月、小泉により、閣僚未経験者ながら自民党幹事長に抜擢された。事前には筆頭副幹事長もしくは外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。同年の総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党の単独過半数はならなかった。
幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年(平成16年)4月の埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した柴山昌彦が当選)。
同年夏の参議院選挙では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。

内閣官房長官
2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣。2006年9月1日に総裁選への出馬を表明。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示す。

・最初の内閣総理大臣就任
「第1次安倍内閣」、「第1次安倍内閣 (改造)」、「2006年の政治」、および「2007年の政治」も参照
2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名される。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。

第1次安倍内閣
就任表明では、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示し[注 1]、国家像として「美しい国」を提示した。
安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に就任後の初外遊先となった中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。
北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派のジョン・ボルトンらと連携して国連の対北制裁決議である国際連合安全保障理事会決議1718を可決させ、個別でより厳しい経済制裁措置も実施した。
同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が肝煎りで任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼国・地方行政改革担当大臣が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが続いた。
2007年3月、安倍の北朝鮮による日本人拉致問題に対する非難と従軍慰安婦問題への謝罪に消極的であることが「二枚舌」とワシントンポストに批判されたが、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップおこなった(島尻は当選し、その後自民党に入党)。
5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺。
こうした中、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。同月6日 - 8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には久間章生防衛大臣の原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は当初続投を支持していたが、批判の高まりを受け久間に厳重注意を行った。久間は直後に辞任し、後任には小池百合子が就任した。

参議院議員選挙(2007年)での敗北
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。同年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」[22]と楽観視していたとも言われるが、結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、東北地方や四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。

体調の悪化と総辞職
参院選直後の7月31日の自民党総務会において、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)。 同日、アメリカ下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と自民党内からも批判された。
広島平和記念式典に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる。そして、8月19日から8月25日のインドネシア・インド・マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。しかし、慶應義塾大学病院の主治医によると、(17歳のときに発症したという)潰瘍性大腸炎の血液反応はなく、機能性胃腸障害という検査結果であったという。
選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(第1次安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催された APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。
2007年9月10日に第168回国会が開催され、安倍は所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。
2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った。また、理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。
退陣表明の翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージの下、これをもって最終号を迎えた。
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした[注 4]。9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた。
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた。
9月25日、安倍内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席した。安倍内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席し正式に辞職、その後、再び病院へと戻った。なお、第1次安倍内閣の在職日数は1年余りとなる366日であった。第1次安倍改造内閣は31日の短命に終わった。

突然の辞任への反応
小川榮太郎によると、多くの国会議員は、記者から安倍が退陣表明をすると聞かされた。亀井静香が記者に向かって「えっ嘘でしょ。これから代表質問だよ。何かの間違いでしょう」と驚く映像は、繰り返し放送されたという。
安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。
もともと胃腸に持病を抱えており、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている。
臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した。与党側でも驚きや批判の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た。
9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している。
安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった。

辞任の原因
2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で一般に言う「腹痛」であったが、実際には「潰瘍性大腸炎」を患っていた。潰瘍性大腸炎は1973年に特定疾患(2015年からは指定難病)に指定されている。

潰瘍性大腸炎の病状
小川榮太郎によると、安倍は17歳のときに潰瘍性大腸炎を発症した。自民党国体副委員長となり、食事ができずに三ヶ月入院して点滴の日々で体重激減した頃が、最も症状が重かった。このとき、「癌でこの先長くない」という噂も流れる。妻の昭恵をはじめ、病名を公表すべきとの意見もあった[26]が、安倍は、官房副長官時代の2000年に症状が出て以降は、幹事長・官房長官などの激務にも体調は万全だったため、2007年8月の段階までは病気を克服できたと判断していた。

麻生・与謝野クーデター説
安倍の辞任において、幹事長の麻生太郎と官房長官の与謝野が安倍を辞任表明に追い込んだとする「麻生・与謝野クーデター説」が自民党の新人議員の一部によってメディアを通じて広められた。この「麻生・与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した[49][50]。

・内閣総理大臣退任後
体調回復と活動の再開
その後、入院していた慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った。
11月13日に新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、福田康夫首相や公明党の太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた。
2007年末、『産経新聞』のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」と答えている。
2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」と語り、同懇話会の座長に就任した。3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」と述べて所属議員に謝罪した。
第45回衆議院議員総選挙直後に行われた2009年自由民主党総裁選挙では、麻生太郎とともに、平沼赳夫の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、西村康稔を支援した。
2010年4月義家弘介が初代塾長の信州維新塾開講式や6月(後に最高顧問に就任する)J-NSC自民党ネットサポーターズクラブ設立総会にゲスト参加[要出典]。10月25日、インドのマンモハン・シン首相を来賓として迎えて開かれた日印友好議員連盟の会合で「(日印両国は)民主主義と法の統治を共有する同盟に近い関係だ」と述べた。

2度目の総裁就任
2012年9月12日、谷垣総裁の任期満了に伴って行われる2012年自由民主党総裁選挙への出馬を表明。自らが所属する清和会の会長である町村信孝の出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、前会長の森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされた事や5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった石破茂、党内重鎮からの支援を受けての出馬となった石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、麻生派、高村派が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となり、9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決戦投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は1956年12月自由民主党総裁選挙以来となった。

・内閣総理大臣に再就任
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、政権与党に復帰。同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足した。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目である。
首相再登板後は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示す。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、アベノミクスと称される。「アベノミクス」は2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞した。

参議院議員選挙(2013年)での勝利
第1次安倍政権時に大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙(前述)以降、参議院では政権与党が過半数を下回るねじれ国会が続いていた(2009年の第45回衆議院議員総選挙から2010年の第22回参議院議員通常選挙までの期間を除く)。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙で、政権与党の自民・公明両党が合わせて過半数を超える議席を獲得し、「ねじれ」は解消した。

2020年東京オリンピック招致
2013年9月7日、ブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会において東京都が2020年夏季オリンピックの開催地に選ばれた。安倍は前年12月の首相就任以降、東京招致委員会の最高顧問として各国首脳との会談や国際会議の際に東京招致をアピールした。さらに、2013年3月に来日したIOC評価委員会との公式歓迎行事では演説を行い、歌を披露する場面も見られた。安倍は首相就任後、1964年東京オリンピックの開催が決定した当時の首相が祖父である岸信介であることを持ち合いに、自らがIOC総会に出席してプレゼンテーションを行う意欲を見せていた。これにより開催地決定の直前である9月5日と6日にロシアのサンクトペテルブルクで開催されたG20を途中で切り上げ、6日にブエノスアイレスに到着しIOC委員へ東京支持を呼びかけた。
7日の総会では東京のプレゼンターの1人として演説を行い、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」、原文で「Some may have concern about Fukushima.Let me assure you. The situation is under control.It has never done and will never do any damage to Tokyo.」と発言。演説後の質疑応答では総会直前に明らかとなった福島第一原子力発電所の汚染水漏れ]に関する質問が出た。これに対し安倍は「結論から言うと、まったく問題ない。(ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」、「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」と答え、「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」と述べた。しかし、その後の汚染水漏れのニュースは後を絶たず、安倍の発言が東電の公表している状況とも異なっているなど、状況は統御されていない事実が明らかになった。このことは国会でも追及されており、安倍は追及に対して「事態は掌握しているし、対応はしている、という意味でコントロールと発言した」と抗弁している。
なお、9月19日に福島第一原子力発電所を視察した際、安倍は東電幹部に「0.3(平方キロ)は(どこか)」と尋ね、実際の範囲がどの程度か理解しないまま発言していた可能性があると共同通信に報じられた[73]。
ちなみに、開催決定後、文部科学大臣の下村博文を「東京オリンピック・パラリンピック担当大臣」に任命し、内閣官房に推進室を設置して各省庁との調整を行う組織を新設することを固めている。

参議院議員選挙(2016年)での勝利
任期満了に伴う2016年7月10日の第24回参議院議員通常選挙では、北海道・東北地方・信越地方・沖縄県で苦戦したものの、前回を上回る議席を獲得した。安倍はこの結果を受けて、アベノミクスが信任を得たものと主張した。

東京都議会議員選挙(2017年)での敗北
2017年7月の都議会選挙では57議席から23議席に減らし、2009年の都議選時の38議席にも満たない過去最低の議席数に留まった。これについて、安倍は「大変厳しい都民の審判が下された。自民党に対する厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければいけない」と述べた。敗因について、「政権発足して5年近く経過し、安倍政権に緩みがあるのではないかという厳しい批判があったのだろう。真摯に受け止めなければいけない。政権を奪還したときの初心に立ち返って全力を傾ける決意だ」と説明した。

衆議院議員総選挙(2017年)での勝利
選挙前と同じ284議席を獲得し、安倍自民党が大勝した。小選挙区で218議席、比例代表で66議席を獲得した。小選挙区の候補者は、北関東ブロック、東京ブロック、南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックで比例復活も含めて全員当選した。小選挙区の候補者3名が無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった。

■略歴
1954年9月21日 - 東京都に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。
1977年3月 - 成蹊大学法学部政治学科卒業
1977年4月 - 米国カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に入学。その後、ロングビーチの語学学校に転校した。
1978年4月 - 南カリフォルニア大学に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修し、1979年に中退。
1979年4月 - 株式会社神戸製鋼所入社
1982年11月 - 神戸製鋼所退社、外務大臣(実父・安倍晋太郎)秘書官に就任
1993年7月 - 衆議院議員初当選(旧・山口1区)
1999年10月 - 衆議院厚生委員会理事
2000年7月 - 第2次森内閣で内閣官房副長官に就任
2001年4月 - 引き続き第1次小泉内閣で内閣官房副長官に就任
2003年9月 - 自由民主党幹事長に就任
2004年9月 - 自由民主党幹事長代理に就任 党改革推進本部長に就任
2005年10月 - 第3次小泉改造内閣で内閣官房長官に就任
2006年9月 - 自由民主党総裁に選出、第90代内閣総理大臣に就任
2007年9月 - 自由民主党総裁及び内閣総理大臣を辞任
2009年11月 - 創生「日本」会長に就任
2012年9月 - 自由民主党総裁に選出
2012年12月 - 第96代内閣総理大臣に就任
2014年12月 - 第97代内閣総理大臣に就任
2017年11月 - 第98代内閣総理大臣に就任

■受賞・栄典
・受賞
第31回ベストドレッサー賞(2002年) - 政治・経済部門
GQ MEN OF THE YEAR 2006[526](2006年)
第42回ベストドレッサー賞(2013年) - 政治・経済部門
FP Top 100 Global Thinkers(2013年)
ハーマン・カーン賞(2013年)
Asian of the Year award(2013年)
タイム誌 - 世界で最も影響力のある100人(2014年) - Leader枠で選出

・栄典
Member Special Class of the Order of Abdulaziz Al Saud、2007年、サウジアラビア
Grand Cross of the Order of Honour、ギリシャ
Member First Class of the Shaikh Isa bin Salman Al Khalifa Order、2013年、バーレーン
Grand Cross of the Ivorian Order of Merit、2014年、コートジボワール
Knight Grand Cross of the Order of Orange-Nassau、2014年、オランダ

■著作
主著
『安倍晋三対論集 日本を語る』 PHP研究所、PHP研究所、2006年4月。
『美しい国へ』 文藝春秋〈文春新書〉、2006年7月。
『新しい国へ 美しい国へ 完全版』 文藝春秋〈文春新書 903〉、2013年1月。
『日本の決意』 新潮社、2014年4月。

共著・編著
『吾が心は世界の架け橋-安倍外交の全記録』 安倍晋三 編、新外交研究会、1992年4月。 - 安倍晋太郎外交対象。
安倍晋三、岡崎久彦 『この国を守る決意』 扶桑社、2004年1月。
『日中対話』 安倍晋三 編、言論NPO〈言論ブログ・ブックレット 私ならこう考える-有識者の主張〉、2006年12月。
安倍晋三、百田尚樹 『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』 ワック、2013年12月。

論文
Japan’s Coming “Wage Surprise” (2013年12月23日発表)安倍晋三、朴槿恵ほか『世界論』(土曜社、2014年1月)に収録予定
Asia's Democratic Security Diamond By Shinzo Abe PROJECT SYNDICATE

■出演番組
・テレビ
そこまで言って委員会NP(読売テレビ)
スッキリ!!(日本テレビ)、2013年4月18日
報道ステーション(テレビ朝日)、2005年1月13日、2012年9月12日、2013年12月20日など
森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ)、2014年3月21日『テレフォンショッキング』コーナー
FNNスーパーニュースアンカー(関西テレビ)、2012年12月19日、2015年1月14日
みんなのニュース(フジテレビ)、2015年7月20日
情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ)、2015年9月4日
ワイドナショー(フジテレビ)、2016年5月1日

・インターネット動画配信
徹の部屋(AbemaTV) - 2017年10月8日

・ラジオ
ザ・ボイス そこまで言うか!(ニッポン放送) - 2014年9月11日
辛坊治郎ズーム そこまで言うか! (ニッポン放送) - 2016年2月20日
須田慎一郎のニュースアウトサイダー (ニッポン放送) - 2017年5月28日、6月4日

■所属団体
創生「日本」(会長)
神道政治連盟国会議員懇談会(会長)
親学推進議員連盟(会長)
北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(顧問)
平和を願い真の国益を考え靖国神社参拝を支持する若手国会議員の会(顧問)
天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(顧問)
地下式原子力発電所政策推進議員連盟(顧問)
日本の前途と歴史教育を考える議員の会(事務局長)
日本会議国会議員懇談会(特別顧問)
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
公共放送のあり方について考える議員の会
真の人権擁護を考える懇談会
将棋文化振興議員連盟
日韓議員連盟(副幹事長)
憲法20条を考える会
日本の水源林を守る議員勉強会
NAISの会
NASAの会

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安倍晋三を「ウィキペディア」で参照する