「昨日の、単語帳?」定時で帰る私に「やる気ある?」と言いかけた先輩が、翌日の給湯室で聞いたこと
覚えきれないから、書いて持ち帰る
入社2年目で、営業事務の課にいます。斜め向かいの席の先輩は、私が入った年からずっと、残って見積を見ている人でした。
勤務中に分からなかった用語や、聞いたけれど1度で覚えられなかった手順は、その場で付箋に書きます。呼び止められた日は、請求の締め日を先輩に確認して、「20日」とだけ答えが返ってきました。それも1枚に書いて、束の一番上に足しました。同じことを2度聞くのが、いちばん申し訳なかったからです。
帰りの電車で束をめくり、家に着いてから単語帳に清書します。並行して、事務の資格の勉強も始めていました。会社で残ってやろうとは思いませんでした。残る時間と、身につく量が同じだとは、どうしても思えなかったからです。
「あのさ、やる気」
締めの週、定時の少し前に鞄を引き寄せたとき、先輩に聞かれました。
「これ、残りどうするの?」
「私の分は終わっています。共有欄にも入れてあります」
先輩は共有欄を開いて、しばらく画面を見ていました。
「お先に失礼します」
そう言って出たあと、電車の中で束をめくる手が、いつもより進みませんでした。
数日後、鞄を肩にかけたところで、呼び止められました。
「ちょっといい?」
「はい」
先輩の顔は笑っていました。冗談の口調で、何か言われるのだと思いました。
「あのさ、やる気」
そこで先輩の視線が下がり、言葉が途切れました。鞄の口が閉まりきっていないのは、自分でも分かっていました。単語帳のリングと付箋の束が、見えていたはずです。続きは聞こえませんでしたが、想像はつきました。
「なんでもない。お疲れさま」
「お疲れさまです」
そう返して、フロアを出ました。駅までの道で、何度も続きを補ってしまいます。やる気、ある?やる気、あるの?補うたびに、歩く速さが上がりました。改札の手前で、束を鞄の内ポケットに移し替えました。見られたことより、見せていなかったことを、初めて意識した帰り道でした。
翌日の給湯室で
次の日、休憩で給湯室に並んでいると、先輩に聞かれました。
「昨日の、単語帳?」
「はい。仕事の用語です。覚えきれなくて」
それ以上は言いませんでした。頑張っていると伝えるために持ち歩いていたわけではないからです。先輩も、それ以上は聞いてきませんでした。残らないことで、何かを取りこぼしていると見られている。それでも、机の上に束を広げる自分は、想像できませんでした。
ただ、その週のうちに、共有フォルダにファイルが1つ増えました。支店コードと締め日、差し戻しの多い理由をまとめた一覧でした。先輩がファイル名を教えてくれたとき、束の一番上の付箋が要らなくなったのが分かりました。
そして...
しばらくして、定時の前に先輩の席まで行きました。
「これ、明日でも大丈夫ですか?」
「うん、それなら明日で大丈夫だよ」
今も定時に帰ります。鞄の付箋の束は、少し薄くなりました。代わりに、共有フォルダの一覧には、自分が気づいたことを書き足しています。先輩の名前の下に、私の名前も並びました。
(20代女性・営業事務)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)
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