「昨日の、単語帳?」定時で帰る後輩を呼び止めた翌日、給湯室で私が聞いたこと
「残っている人」が私の基準でした
後輩は入社2年目で、同じ営業事務の課にいます。席は斜め向かいで、電話の声も独り言も、お互いに聞こえる距離でした。彼女は定時になると、パソコンを閉じて鞄を肩にかけます。締めの週でも、課長が「今週きついね」とこぼした日でも、それは変わりませんでした。
残った私たちは見積の差し戻しを分け合い、退勤の打刻を1時間ずつ遅らせていきます。誰かが「若い子は割り切ってるよね」と笑い、同じ調子で返しました。そのうち、後輩の帰る背中を見送るたびに、頭の中で採点をしていることに気づきました。熱意が薄い。人に任せる前提でいる。そういう項目に、勝手に丸をつけていたのです。
2年目の頃の自分は、残ることでしか安心できませんでした。見積の番号を取り違えて課長に頭を下げた日も、遅くまで残って、それで帳消しになった気でいたのを覚えています。
「私の分は終わっています」
締めの週の、定時の少し前に、後輩が鞄を引き寄せるのが見えました。差し戻しの山はまだ机の上にあります。声に棘が混じるのを、止められませんでした。
「これ、残りどうするの?」
「私の分は終わっています。共有欄にも入れてあります」
共有欄を開くと、彼女の担当分は全部に処理済みの印がついていました。差し戻しの理由も、1件ずつ短く書き添えてあります。抜けを探すように上から下まで見て、見つからないまま画面を閉じました。
それでも、納得はできませんでした。自分の分が終わっていても、周りが残っているなら手伝うものではないのか。そう思う一方で、彼女に手伝ってと言った覚えは、1度もありませんでした。言わずに残っている側が、勝手に期待だけをしていたのです。
「お先に失礼します」
その背中を見送りながら、次に同じ場面が来たら、今度は聞こうと決めていました。仕事ぶりではなく、姿勢の話として。
「あのさ、やる気」まで出ました
数日後、後輩が鞄を肩にかけた瞬間に、笑顔を作って席を立ちました。
「ちょっといい?」
「はい」
振り返った後輩は、鞄の口を閉めきらないまま、こちらに体を向けました。言おうとしていたのは「やる気ある?」でした。冗談の顔で言えば、角が立たないと思っていたのです。
「あのさ、やる気」
そこまで出たところで、視線が下に落ちました。鞄の口から、リング式の単語帳がのぞいています。その横には、黄色い付箋の束が、輪ゴムで留められていました。一番上の1枚には、丸い字で「請求の締めは20日」と書いてあります。新人の頃、何度も確認しに行った締め日でした。
単語帳のリングは使い込まれて、金具の色が薄くなっています。付箋の束は、指で押さえないと広がるほどの厚みでした。見えたのは、それだけです。それでも、言いかけた言葉と目の前の束とを、同じ場所に置くことができませんでした。続きの代わりに出たのは、まるで別の言葉です。
「なんでもない。お疲れさま」
「お疲れさまです」
後輩は鞄の口を閉めて、フロアを出ていきました。自分の席に戻り、開いたままの見積画面を見ていました。
次の日、休憩で給湯室に並んだとき、迷った末に聞きました。
「昨日の、単語帳?」
「はい。仕事の用語です。覚えきれなくて」
それだけでした。彼女は自分から続けようとはせず、私も深くは聞きませんでした。ただ、締め日の付箋が束の一番上にあった理由は、なんとなく分かりました。あの日、彼女が請求の締め日の確認で声をかけてきたとき、画面から目を離さずに「20日」とだけ返したからです。彼女はそれを書きとめて、持ち帰っていた。短く答えた側の記憶が、こんなに薄いことの方に、居心地の悪さを覚えました。
残った時間の長さを、ずっと熱意の目盛りにしていました。共有欄で終わっていると確かめたあとでさえ、目盛りの方を信じていたのです。会社に残ることで安心していた自分と、別の時間を使って覚えていた彼女。やり方が違うだけなのに、片方だけを努力と呼び、もう片方には名前すらつけていませんでした。
そして...
その週のうちに、共有フォルダにファイルを1つ増やしました。支店コードと締め日、差し戻しで多い理由をまとめた一覧です。ファイル名を伝えると、後輩は短くお礼を言って、それきりでした。
それからしばらくして、定時の前に後輩が席まで来ました。
「これ、明日でも大丈夫ですか?」
以前なら、みんな残っているのだから今日やればと、口に出さなくても思っていたはずです。
「うん、それなら明日で大丈夫だよ」
彼女が帰ったあと、自分の画面に並んだ仕事を見直しました。今日中でなくていいものを閉じていくと、残ったのは2件だけでした。その2件を片づけて、いつもより2本早い電車に乗りました。共有フォルダの一覧には、先週、彼女の追記が増えていました。
(30代女性・営業事務)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
関連記事
「コラム」カテゴリーの最新記事
-
【星座別】2026年10月上旬、知らないカフェへの小さな冒険が、運命の人につながる女性ランキング<第1位~第3位>ハウコレ -
【星座×星座】2026年10月、小さな嫉妬で絆が深まるカップルランキング<第4位~第6位>ハウコレ -
「昨日の、単語帳?」定時で帰る私に「やる気ある?」と言いかけた先輩が、翌日の給湯室で聞いたことハウコレ -
【星座別】2026年10月上旬、知らないカフェへの小さな冒険が、運命の人につながる女性ランキング<第4位~第6位>ハウコレ -
「早く寄こせ!」息子を奪いにきた【元義母】がカフェで暴走!?しかし直後⇒『しーん…』地獄の空気になったワケ愛カツ -
妻の貯金から【250万円】を無断使用する夫「俺が稼いで返すから怒るな」反省ゼロの夫に妻が下した決断とは…!愛カツ -
「ダメ嫁には水がお似合いね♡」義妹に頭から水をかけられた嫁!?しかし⇒「ありがとう」笑顔で返したワケ愛カツ -
【星座別】10月前半、一緒にいるほど彼が本気になる女性ランキング<最下位~第10位>ハウコレ -
【星座別】2026年10月上旬、秋色の服をまとった日に、好きな人が思わず目を留める女性ランキング<第1位~第3位>ハウコレ