3年間、拾った財布の持ち主からの「財布、まだ持っています」。頼んだ理由を、私は伝えていません
見覚えのある糸
バスの終点で降りるとき、前の席の下に黒い財布が落ちていました。名前を確かめるために開くと、角の内側に、太い糸で補強した縫い目がありました。糸の端を内側で2度結んで切る、私のやり方です。私は百貨店の修理の受付に長くいて、財布や鞄の角の補強を10年以上直してきました。受付は5年前になくなり、私はいま近所の店でレジに立っています。直したものがそのあとどうなったか、受付にいたころは一度も知ることがありませんでした。直った品を渡したあと、同じ客が同じ品を持って戻ってくることは、まずないからです。
財布は営業所へ届け、連絡先を知らせてよいかという欄に印をつけました。
お礼のかわりに
持ち主から文が届いたのは翌日でした。
「財布を拾っていただいた者です。無事に戻りました。お礼をさせてください」
「お礼はいりません」
そう返してから、私は次の文を打ちかけては消しました。角を直したのは私だと書けば、拾ったのではなく、自分の仕事を確かめるために財布を開けたように読まれます。頼めるのは、1つだけでした。
「代わりに、1つお願いがあります。月に一度、『財布、まだ持っています』とだけ送ってください」
「それだけで、いいんですか」
「それだけで、いいんです」
まだ持っています、は、私には、あの角がまだ持っています、と同じ文です。修理の受付では聞けなかった答えを、私は月に一度、もらうことにしました。
すり切れてきた角
届く文は、3年変わりませんでした。
「財布、まだ持っています」
私はそのたびに「ありがとうございます」と返しました。持っていてくれることへの礼です。持ち主がそれをどう読んでいたかは、分かりません。
3年目に入ったころ、決まりの文が崩れました。
「角がすり切れてきました。買い替えようか迷っています」
私はその文を2度読んでから、引き出しを開けました。受付をやめるときに持ち帰った、糸が、まだ残っています。
「その角は直せます。捨てる前に、一度見せてください」
返事はつきませんでした。既読の印だけが、その日のうちにつきました。
そして...
次の月の初めに、いつもの1行が届きました。買い替えたなら、この文はもう来ないはずです。糸は引き出しに入れたままで、見せに来る話は、まだ出ていません。あの角を縫ったのが私だということは、伝えていません。伝えれば、持ち主は3年、私の仕事の様子を知らせるために書かされていたと知ることになります。私は今月も「ありがとうございます」とだけ返して、糸を引き出しの手前へ寄せました。
(60代女性・パート)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
関連記事
「コラム」カテゴリーの最新記事
-
【星座×星座】この秋、会えない日でも不安にならないカップルランキング<第4位〜第6位>ハウコレ -
「私は先輩じゃないので」と返した私が、先輩の失敗の記録を読み始めた理由ハウコレ -
どんなに隠しても出てしまう。浮気中の男性に共通する"不自然な行動"ハウコレ -
「善意よ?」牛乳アレルギーの娘に、ケーキを与えた義母!?しかし病室で⇒「ご…ごめんなさい…」義母が絶句したワケ愛カツ -
結婚式を控える妻だが…“同じ布団で眠る夫”を見た直後「え、嘘…」⇒式の最中に【離婚】を言い渡したワケ愛カツ -
本気の相手にだけ。男性がキスのあと夢中で抱きしめてくる瞬間ハウコレ -
【誕生月別】2026年10月、友達経由で好意を知らされる女性ランキング<第4位〜第6位>ハウコレ -
【星座別】褒め上手♡人の長所を見つけるのが得意な女性ランキング<第1位~第3位>ハウコレ -
「考え方を変えただけで恋愛が変わった」うまくいく女性に共通するマインドの正体ハウコレ