杖の女性の前で目を閉じる会社員に「お休みみたいですから」と言った私→終点で知った事情
杖の音に、まぶたは動きませんでした
残業を終えた帰りの電車で、私は扉の脇に立っていました。目の前の優先席には、スーツ姿の会社員が鞄を膝に載せ、目を閉じたまま座っています。
2駅目で、杖をついた女性が乗ってきました。女性は優先席の前まで進み、つり革をつかみました。杖の先が床を打つ音は、はっきり聞こえます。彼のまぶたは動きませんでした。
ただ、鞄の持ち手を握る指に力が入ったのは見えました。起きている、と私は決めました。
「お休みみたいですから」
女性は何も言わず、揺れるたびに杖を持ち直していました。私は女性のほうへ身体を向けて、彼に届く声で言いました。
「お休みみたいですから、こちらは無理ですね」
女性は小さく笑って首を振りました。彼の目は閉じたままで、顔が私のほうを向くこともありませんでした。ほどけた靴紐が、電車の揺れに合わせて床を滑っています。
足を投げ出して、杖の音にも知らないふりをする人。そう決めつけて、私は3駅ぶん、彼の靴の先を見ていました。女性は、そのまま座れずに降りていきました。
説明する義務はない、と彼は言いました
終点に着き、乗客が扉へ流れていきました。私もホームへ出てから、車内を振り返りました。彼はまだ座っていました。終点なのに、まだ寝たふりを続けるのかと思いました。
ところが目は開いていて、ホームにいた駅員に向かって片手を上げています。何をしているのだろうと見ているうちに、駅員が車内へ入り、彼の腕を自分の肩に回して立ち上がらせました。右足が、床につかないまま浮いていました。私は、ほどけた靴紐と前に投げ出した足を見直しました。鞄を握っていた指にも、力が入っていました。感じが悪いと思っていた姿が、痛む足をかばうためだったと分かりました。
「足をひねっただけなので、タクシー乗り場までで大丈夫です」
その声で、3駅前に自分が言った「お休みみたいですから」が戻ってきました。聞こえるように言ったことまで、全部です。私は鞄の持ち手を握り直して、2人のところへ歩いていきました。
「さっき、聞こえるように言いました。すみませんでした」
「聞こえてました」
彼は駅員の肩を借りたまま、私を見ました。
「でも、別に説明する義務はないと思ってたので」
私は顔を上げました。決めつけたのは私です。目を閉じていることだけを見て、席を譲れる人だと思い込んでいました。
「そうですか」
私はそれだけ返して、彼の右足を見ました。あの3駅の間、本当に眠っていたのか、起きていて黙っていたのか。聞けませんでした。
そして...
駅員と私で、彼をタクシー乗り場まで送りました。鞄は私が持ちました。乗り込む前、彼は言いました。
「あの人には、言えばよかったです」
私は「そうですね」とだけ返しました。彼にも話したいことがあったのかもしれません。それでも、事情を知らないまま寝たふりと決めつけて嫌味を言ったのは、私のほうの問題でした。
あの日から、優先席に座っている人を見ても、その人が座っている理由まで勝手に決めないようにしています。
(30代女性・事務職)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
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