「あの部屋は、僕が立つ場所だから」キッチンを撮れなかった本当の理由
写真に残せなかった一室
物件を見に行くと、僕はスマホでいろいろな場所を撮っていました。リビングの広さ、収納の位置、ベランダの向き。あとで彼女と見返せるように、気になったところはひと通り残しておくのが習慣でした。
ただ、キッチンの前に立つと、どうしてもカメラを構える気になれませんでした。他の部屋なら一枚撮れば十分なのに、台所だけは画面ごしに眺めるのではなく、自分がそこに立って料理をする様子を、頭の中で何度も思い浮かべていたかったのです。ここの動線は使いやすいか。鍋を置く場所はあるか。そんなことを考えていると、写真を撮ること自体を忘れてしまっていました。
ずっと言えなかった思い
僕は昔から料理をするのが好きで、一人暮らしの間も自分のためによく作っていました。彼女と一緒に暮らすなら、台所に立つのは僕でありたい。いつからか、そんなふうに考えるようになっていたのです。ある物件で、彼女が「ここのキッチン、ちょっと狭いね」と言いました。僕は「うん、でもここなら十分かな」と返しながら、頭の中ではもう、その台所で彼女に何を作ろうかと考えていました。それなのに、その気持ちを口に出せませんでした。料理を本格的に習ったわけでもない自分が、偉そうに「僕が作るよ」と言っていいのか。自信のなさが、いつも言葉の手前で僕を引き止めていました。
打ち明けたとき
家に帰ったあと、彼女のほうから切り出してきました。「どの部屋も撮るのに、キッチンだけ撮らないよね」。見抜かれていたのだと思い、「気づいてたんだ」と返すのが精いっぱいでした。彼女は少し寂しそうに、「私が料理する前提なのかなって、ずっと思ってた」と言いました。その言葉で、自分の沈黙が彼女を傷つけていたのだと分かりました。僕は急いで首を振りました。「逆だよ。あの場所は、僕が立つ場所だから」。そして、ずっと隠していた本音を伝えました。「うまく作れる自信がなくて、言い出せなかったんだ」。彼女は目を丸くしたあと、ふっと表情をゆるめてくれました。
そして...
黙っていれば傷つけずに済むと思っていたのは、僕の勘違いでした。本当は、何も伝えないことのほうが、彼女を遠ざけていたのです。それからの内見では、僕は堂々とキッチンの写真を撮るようになりました。「ここなら作りやすそう」と話すと、彼女もうれしそうに間取りをのぞき込みます。完璧な料理なんて、まだ作れません。それでも、自分の立つ場所をきちんと言葉にできた今は、新しい部屋での暮らしが楽しみで仕方ありません。次の休日も、二人で物件を見に行く約束をしています。
(20代男性・会社員)
本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。
(ハウコレ編集部)
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