「もう潮時」としか言えなかった八百屋の俺→30年仕入れた農家から届いた最後の荷物
「潮時」の本当の中身
この店の葉物や根菜の多くは、30年近く同じ農家から仕入れてきました。畑に何度も通い、値段の話でけんかもしました。形が悪くても味のいい野菜なら、「これでいい」と箱ごと引き取ってきました。
その男が、今年で畑を畳むと言ってきたのです。
別の仕入れ先を探せば、店は続けられました。でも、今までと同じ顔で別の野菜を同じ箱に並べる気にはなれませんでした。俺の年齢を考えれば、1から仕入れ先を作り直すより、ここで終わらせるほうがいいとも思いました。
張り紙を出した日、いつも仕事帰りにネギを買っていく女性の客が聞いてきました。
「どうして、急に」
「もう潮時なんだよ」
笑って首の後ろをかきながら、そう答えました。
本当のことを言えば、農家の話から始めなければなりません。30年分を立ち話で説明するのが照れくさくて、「潮時」で終わらせました。
最後の箱に入っていたもの
閉店を決めてしばらくして、その農家から最後の荷物が届きました。
いつもの小松菜や大根の下に、小松菜の種が入った大きな袋が1つ入っていました。店で売るようなものではありません。
箱の内側に、太い字で短く書いてありました。
「店先の鉢にでも撒け」
電話をすると、「余ってたから入れただけだ」と言われました。
店先に鉢を置くころには、この店はありません。俺はしばらく種の袋をレジの下に置いたままにしていました。
閉店まで1週間を切ったころ、いつもの女性の客が聞きました。
「またどこかでお店やらないんですか」
「野菜はな、俺が作ってるわけじゃないから」
箱を降ろしながら、そう答えました。
店を続けられない理由を言ったつもりでしたが、たぶん伝わってはいません。
その日の帰り、近所の種苗店に寄りました。農家からもらった袋と同じ小松菜の品種を探し、常連に渡せる小袋をまとめて買いました。
あの種そのものを分けるより、育て方の書いてある袋で渡すほうがいいと思ったのです。
店を閉めたあと、紙袋に1つずつ入れました。メモには短く書きました。
「プランターでも育つ。40日くらい。」
行列の1人ずつに手渡した
最終日、店を開ける前から人が並んでいました。野菜はキャベツを数個残しただけで、ほとんどが前日までに売れていました。それでも列は切れず、俺は顔を覚えている客に紙袋を手渡していきました。
いつもの女性の客の番が来ました。
3年ほど、仕事帰りにネギや小松菜を買っていく人です。最近は来る日が減っていたことも、閉店の張り紙を出してから毎日のように来ていたことも知っていました。
袋を差し出してから言いました。
「いつも仕事帰りに来てくれて、ありがとな」
「こちらこそ」
その人は袋を両手で受け取りました。
中身のことは説明しませんでした。農家のことまで話せば、結局また長くなるからです。
育てた小松菜が、この店で売っていたものと同じ味になるとは思っていません。畑も土も違います。
それでも、野菜は店で買うだけじゃなく、種から育つものだということを最後に伝えておきたかったのです。
そして...
店を畳んで数日後、空になった箱を農家へ返しに行きました。
畑の端には使わなくなった道具がまとめられ、倉庫の前には空箱が積まれていました。
「種、どうした」
荷台から箱を降ろしていると、男が聞きました。
「客に配った」
「全部か」
「足りないから買い足したよ」
それを聞いて、男は笑っただけでした。
帰り際、店に30年並べてきた野菜がもうここから届くことはないのだと、そこで初めて実感しました。
常連客には最後まで詳しい理由を話しませんでした。
「潮時」と言ったのは、商売が嫌になったからでも、客が減ったからだけでもありません。俺が八百屋を続けてきた30年の中に、あの男の野菜が最初から入っていたからです。
今になって思えば、それくらいは、あの女性にも話しておけばよかったと思っています。
(60代男性・自営業)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)
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