娘の昇進祝いを買いに出た俺が、新品を棚に戻して使い古しを渡した理由
棚に戻した新品
娘が主任になると妻から聞いて、俺は柄にもなく売り場へ足を運びました。革小物の棚で新品の名刺入れを手に取り、包んでもらうところまで想像して、棚に戻しました。手の中の新品が、やけに軽く感じられたからです。気の利いた祝いの言葉が出てこないのは、昔から変わりません。それなら、言葉の代わりに渡せるものがある。俺が一番苦しかった頃を丸ごと知っている、あの革のほうがふさわしい。そう決めて、家に帰ってから自分の名刺入れを取り出し、布で革を磨きました。
1枚の紙のこと
その名刺入れは、俺が主任になった年に買ったものです。当時は取引先で名刺を出す手つきが定まらず、若造だと思われている気がして、順番が近づくたび上着の内側を確かめていました。ある日、机の引き出しにあった娘の絵が目に入りました。保育園の頃に描いてくれた俺の顔です。名刺の大きさに切って、内ポケットの一番奥に入れました。理屈はありません。ただ、それからは名刺の出し方で悩むことが減りました。紙の角が丸くなるまで、そいつはずっと胸の内側にいたわけです。
渡した日
実家に帰ってきた娘の前に、俺は名刺入れだけを置きました。「使うか、これ」。娘は一拍おいて「……ありがとう。使う」と受け取ってくれました。礼の前の間で、期待していたものと違ったのだろうと察しはつきました。当たり前です。この革が何を守ってきたのか、俺はまだ何も話していないのだから。渡す前、あの紙を抜こうとして、やめました。抜いてしまえば、ただの古い革です。俺が支えられてきたものごと持たせるのが、俺にできる精いっぱいの応援でした。
そして...
後日、娘から電話がありました。「名刺入れの中に、紙が入ったままだったよ」。言いたいことはいくつもありましたが、口から出たのは「ああ。返さなくていい」だけでした。まあ、それで十分に伝わる革を渡したつもりです。翌週、俺は自分用の名刺入れを買いにもう一度売り場へ行き、今度は迷わずに済みました。胸にある新しい革の匂いには、まだ少し慣れないでいます。
(50代男性・会社員)
本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。
(ハウコレ編集部)
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