小池百合子 こいけゆりこ

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小池百合子のプロフィール

小池 百合子(こいけ ゆりこ)
1952年〈昭和27年〉7月15日
日本の政治家
東京都知事(第20代)
自由民主党所属
東京都銃剣道連盟会長
元・ニュースキャスター。
アラビア語通訳者、ニュースキャスターを経て、1992年に政界へ転身した。
テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』キャスター(初代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、総務政務次官(細川内閣)、経済企画総括政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣・第2次森内閣)、環境大臣(第5・6・7代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣(第2代)、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長(第49代)、自由民主党無電柱化小委員長、自由民主党国際人材議員連盟会長、日本ウエイトリフティング協会会長などを歴任した。

来歴
生い立ち
兵庫県芦屋市生まれ。芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経て、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部、E.S.Sに所属。高校在学中の1969年、神戸市で衣料関連の貿易商を営んでいた実父が、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から同年12月の第32回衆議院議員総選挙に立候補したが落選している。
甲南女子高校卒業後に関西学院大学社会学部に入学するものの、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年9月に大学を中退してエジプトへ留学。カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修め、カイロ大学に移り卒業した。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこともある。

通訳・ニュースキャスター時代
カイロ大学卒業後はアラビア語の通訳として活動。PLO議長アラファトやリビアのカダフィの会見では、コーディネーター兼インタビュアーを務めた。1984年、東京大学に在籍していたトルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリの抗議を受け、「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に改められた。小池はこの青年を当時から支援しており、本人も後日新聞報道でそれを認めている。小池によれば、トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、氏への個人的な共感の結果だったという。自ら厚生省(現在の厚生労働省)に乗り込み、当時第2次中曽根内閣の厚生大臣(同厚生労働大臣)だった渡部恒三に「日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ」と直談判、渡辺の指導により『トルコ風呂』という名称は使用されなくなった。
1979年から1985年まで、日本テレビ『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めた後、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた。
1990年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞した。

政界入り
参議院議員
1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由で、前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選した。細川とは、同年5月に「ワールドビジネスサテライト」に細川がゲスト出演した際が初対面であり、番組出演をきっかけに細川が参議院議員候補として小池に白羽の矢を立てたという。

衆議院議員
1993年、参院議員を任期途中で辞職。第40回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から日本新党公認で出馬し、当選した。同年、細川内閣で総務政務次官に就任。
1994年、日本新党の解党に伴い新進党結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市・宝塚市・川西市)から出馬し、再選。新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近であり、1997年の新進党解党後は小沢が党首を務める自由党の結党に参加。1999年、小渕第2次改造内閣で経済企画政務次官に任命され、第1次森内閣まで務める。
内閣総理大臣森喜朗らと共にロシア大統領ウラジーミル・プーチンと面会(2001年3月)
2000年の自由党分裂に際して小沢と決別し、保守党結党に参加した。2002年、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に保守党を離党し、保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。清和政策研究会に入会した。

小泉政権
環境大臣
2003年、第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に任命され、初入閣した。同年の第43回衆議院議員総選挙では、比例近畿ブロック単独で立候補し、4選。第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。環境大臣は第3次小泉改造内閣まで務め、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役を務める。
2005年衆議院議員総選挙
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政国会で郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の当選を阻止するため[要出典]、東京10区に刺客として国替えする意向を表明[12]。この総選挙では、小泉純一郎の意向で女性候補が比例区の名簿で上位に優遇される措置が取られ、小池もその対象であった。しかし、小池は対立候補から事実上当選が確実な状態であることを指摘され、選挙区での戦いが不利になることを懸念。優遇の措置を辞退して選挙に臨んでいる[要出典]。選挙の結果、民主党の鮫島宗明や小林を大差で破り、5選。
第1次安倍政権

防衛大臣
国務長官コンドリーザ・ライスと会談後に握手(2007年8月9日)
アメリカ統合参謀本部議長ピーター・ペースと(2007年8月17日)
2006年に発足した第1次安倍内閣では、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に任命される。その後、2007年7月3日、防衛大臣久間章生の辞任後の後任の防衛大臣に起用された。
防衛大臣就任後、 テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した。
2007年8月には、米下院慰安婦決議問題で内閣総理大臣安倍晋三、外務大臣麻生太郎、駐米大使加藤良三が日米関係に与えていたマイナス・イメージを払拭すべく、第167回国会を欠席してアメリカを電撃訪問し、国防長官ロバート・ゲーツや副大統領ディック・チェイニーと会談する。野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは米(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした。なお、訪米のための国会欠席について8月9日に行われた自民党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判されている。
8月24日、訪問先のインド・ニューデリーにて、同行した記者団に対しイージス艦機密情報漏洩事件に言及。「防衛省内で誰も責任を取っていない。私は責任を取りたい」と述べた上で、3日後に行われる内閣改造で自身の再任を固辞し、防衛大臣を離任する意向を表明した。

2008年自由民主党総裁選挙
世界経済フォーラム(2008年)
2008年9月、福田康夫の辞任に伴って実施された自由民主党総裁選挙に20人の推薦人を確保し、立候補した。自民党結党以来、女性の自民党総裁選出馬は史上初である。結果は、麻生太郎、与謝野馨に次ぐ3位の得票数で、地方票は0票であった。ただし、党員票では麻生に次ぐ2位に付けており与謝野を大きく引き離している。これは多くの都道府県が地方票の1位総取り方式を採用したためである[要出典]。

2009年衆議院議員総選挙
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、公明党の推薦を受け、再び東京10区から出馬。また、同じ東京10区に候補者を擁立していた幸福実現党に選挙協力を打診し、幸福実現党は候補擁立を取り止めて小池を支援した。
「風車のお百合」をキャッチフレーズに、自身が所有する電気自動車を使用して環境を前面に押し出した選挙運動を展開し、選挙協力を得た幸福実現党と共に演説を行ったが、民主党新人の江端貴子(105,512票獲得、得票率47.2%)に敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックで復活した。小池が獲得した96,739票(得票率43.3%)は、比例東京ブロックで復活した自民党候補の得票数では下から2番目に低く、惜敗率の低さから比例東京ブロックで復活できなかった石原宏高や佐藤ゆかり、伊藤公介の得票数を下回っている(ただし、東京10区は東京都で2番目に有権者数が少ない選挙区である)。9月3日、「派閥単位でなく、党全体で結束すべき」として町村派を退会し、無派閥となった。
麻生総裁退陣に伴う2009年自由民主党総裁選挙には立候補せず、谷垣禎一の推薦人に名を連ね、谷垣総裁の下で党広報本部長を務める。2010年6月9日の自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)設立総会で、相談役に就任した。

自由民主党総務会長
英国エネルギー・気候変動大臣エド・デイヴィ(英語版)と(2013年6月13日)
2010年9月の党役員人事で、谷垣総裁の下、第49代自由民主党総務会長に就任した。党三役に女性が就任するのは結党以来初めてだった。2011年9月、自民党総務会長を退任した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、東京10区で前回敗れた江端を大差で破り7選(108,983票獲得、得票率53.7%)。。選挙後、自由民主党広報本部長に就任する。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、東京10区で8選(93,610票獲得、得票率50.7%)。

2016年東京都知事選挙
東京都知事選で衆議院議員若狭勝とともに街頭演説(2016年7月、新宿駅東南口)
小池(緑)は特に都心部を中心に幅広く支持を集め、檜原村や島嶼部の一部を除くほぼすべての自治体で最も多い票を獲得した。
2016年6月29日に記者会見を開き、舛添要一の辞任に伴う同年7月の東京都知事選挙に立候補する意向を表明する。自民党東京都連会長石原伸晃に推薦を依頼するも、「7月10日の参院選の投開票後に結論を出したい」と返答された。
7月6日、「このままでは(自民党からの)推薦が得られない中での立候補になるが、東京の改革のために覚悟を持って臨みたい」として正式に立候補を表明する。7月10日、小池は自民党に提出していた推薦依頼を取り下げた。その後、自民党は増田寛也の推薦を正式に決定し、都連では石原と東京都連幹事長内田茂らの連名で、自民党が推薦していない候補者を応援した場合は「除名などの処分対象になる」との文書を自民党所属の国会議員や地方議員に配布した。
7月31日に執行された選挙の結果、2位以下の候補を大きく引き離して291万2628票を獲得し、女性としては初めて東京都知事に当選した。同年8月2日、東京都選挙管理委員会が当選の旨を告示し、同日付で第20代東京都知事に就任した。

政策・主張
外交・安全保障
核武装
2003年11月、毎日新聞の衆議院議員アンケートで、日本の核武装について「国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した。
リビア
日本の国会議員きっての親リビア派とされる。日本リビア友好協会では会長に就任しており、日本とリビアとの関係の強化、発展を狙っている。なお、この日本リビア友好協会は、リビアからの要求に基づき、政府に代わり「日本リビア間の経済、産業、科学技術、文化等の協力促進に関する合意書」を締結した団体である。国際連合によるリビア制裁の間も、日本とリビアとの関係強化を図るためさかんに活動しており、同国の革命指導者であるムアンマル・アル=カッザーフィーの二男のサイフルイスラーム・ムハンマド・アル・カッザーフィーや、三男のアル=サアディー・カッザーフィーに対し、日本訪問を要請したのもこの団体である。
小池はリビアを訪問した経験もあり、複数回にわたって同国の革命指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーと直接会談している。さらに、カッザーフィーに招かれ執務室の中に入ったこともあるという。
カッザーフィーは民主主義国家の樹立を目指し、明治維新を参考にしている、などと主張している。
2009年にはカッザーフィーに対してゲーム機「Wii」をプレゼントしたこともあると主張した。
2011年8月には、日本の政治家として初めてリビア国民評議会のトップであるムスタファ・モハメド・アブドルジャリル議長らと会談した。

内政
選択的夫婦別姓制度
党議拘束を外す場合、選択的夫婦別姓については選択制であることから賛成するとしている。一方、2014年の調査では、「どちらとも言えない」としている。
表現規制
国会議員時代は「マンガやアニメ、映画、ゲームにおける描写を規制する青少年健全育成基本法案」の請願を国会に提出した。2016年東京都知事選挙でも、小池の選挙対策事務所は「表現の自由は、しっかりと守るべき」とした上で「目をそむけたくなるものも中にはあり、そこをどのように線引きするか議論が必要」とした。
無電柱化
自民党無電柱化小委員会の委員長として日本全国の無電柱化を推進し、「無電柱化推進法」の成立を目指している。
満員電車の解消
都知事選挙では目玉政策として2階建車両を使用した「満員電車の解消」を訴えていた。

人物
結婚歴
エジプトに留学していた21歳の頃、日本人留学生だった一般人男性と結婚し、その後すぐに離婚している。

政党遍歴
日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と5つの政党に所属し、「政界渡り鳥」と呼ばれることがある。ただし、日本新党、新進党は党そのものが解党しており、自発的な離党は自由党および保守党を離党した時である。また、自由党からの離党は自自公連立政権からの離脱に反対したためであり、海部俊樹、扇千景、野田毅、二階俊博など小池を含めて26名の議員が共に離党している。
小池は『文藝春秋』(2008年1月号)への寄稿で、「政界再編の荒波の中で生きてきた結果、自慢にはならないが、新党の立ち上げはお手のものだ。党名、綱領、政策、キャッチフレーズに、党名ロゴ作りまで、三日もあればまとめる芸当さえ身に付けたが、もうたくさんである」と回想している。2016年7月に東京都知事選挙への立候補を表明した際には、「このところいろいろと私のこれまでの経歴などをご紹介いただく放送などを見ていて、『政党がコロコロ替わる』というようなご指摘もいただいている。しかし、改めて申し上げると、それは政党の離合集散の結果であって、政党名が変わっただけであって、私の主張、思想、そして信念は一度も変えたことがない。改めて思うと、政党というのはあくまで機能体であって、仲間内の運命共同体ではないと思う」と自ら説明している。

病歴
1997年末には盲腸の手術を、翌1998年5月には子宮筋腫の手術を受けた。子宮全摘出で3週間入院した。
2006年3月29日、肺炎により40度近い熱を出し脱水症状で入院したが、翌4月14日に退院して公務に復帰した。 

防衛事務次官更迭問題
2007年に防衛大臣に就任した小池は、内閣総理大臣補佐官時代からの懸案であった防衛省の「情報保全」システムの確立を理由に、防衛事務次官守屋武昌を退任させ、警察庁出身の官房長西川徹矢を防衛事務次官に起用する人事案を作成した。しかしこの人事情報が防衛省中枢からマスコミに漏洩され、更に守屋が小池の頭越しに内閣総理大臣安倍晋三や内閣官房長官塩崎恭久に対して直接、人事案の撤回を直訴。塩崎が小池に対し、人事案の再考を求める事態に発展した。小池は人事案の撤回を迫られ、安倍・塩崎らは守屋留任でも西川でもない「第三の(人事)案」を小池に要求して事態の収拾を図り、守屋同様防衛省プロパー(他省庁からの出向ではない、生え抜きの防衛官僚)である人事教育局長増田好平を後任の事務次官に起用する「第三の案」で決着させ、マスコミは「痛み分け」「けんか両成敗」などと評した。なお守屋は事務次官を退任後、国会での証人喚問の後に逮捕、起訴された。小池は「オンナの直感で『これはよろしくない』と思った」と述べた。

「臥薪嘗胆ヘア」と断髪式
小池は高校時代以来髪を伸ばしたことがなく、一貫してショートカットだった。自民党が政権を失った後、政権に復帰するまで髪を切らないと宣言した。小池は「つらいこと(=伸びた髪)を自分に課そうと思った」と語り、自ら「臥薪嘗胆ヘア」と名付けた。
2012年12月16日に行われた衆議院議員総選挙において自民党が政権に復帰し、小池自身も2期ぶりに小選挙区からの当選を果たした。この結果を受け、同年12月19日、後援会関係者らが参加して「断髪式」が行われた[54]。1年2ヶ月の間切らなかった髪は肩下まで伸びていたが、自民党の河村建夫選対局長や三原じゅん子参院議員ら50人以上が大相撲の断髪式にならって髪にハサミを入れ、元のショートカットに戻った。会場は最初両国国技館での開催を希望したが[55]、都内のホテルで行われた。

政治資金
朝日新聞は2007年11月26日、政治資金収支報告書において2003年から4年連続で繰越金が0円だった団体の一つに小池が代表を務める政党支部を挙げた。小池の事務所は、「実際にかかった費用を積み上げ、法にのっとって適切に処理した結果だ」としている。
産経新聞は2016年7月4日、小池が代表を務める自民党東京都第10選挙区支部が、支援者が所有するビルの一室を相場価格の半額ほどで賃借しながら、差額を寄付として政治資金収支報告書へ記載する義務を怠っていたと報じた。神戸学院大学教授の上脇博之は「政治資金規正法に抵触する可能性がある」と主張した。小池の事務所は、「提示された金額を見て借りることにしたので、寄付という認識は全くない」と説明し、産経新聞の報道内容への反論をおこなった。

パーソナル
プロ野球・阪神タイガースファン(阪神ファン)である。
小池によれば、顔の頬の部分に痣があり、キャスター時代は化粧で隠すことに苦労したという。都知事選時に石原慎太郎が小池を「厚化粧の女」と発言した際は、「ちょっとぐさっときたかな」と思ったという。
2016年に第29回小学館DIMEトレンド大賞では、創刊30年記念として創設された「DIME創刊30周年記念 トップリーダー賞」を受賞。

発言
小沢一郎
新進党、自由党に在籍していた約6年間に小沢一郎を支持していた理由について、「小沢さんが九三年に刊行された『日本改造計画』に大変な感銘を受けたからだ」と説明しながらも、「ところが、小沢さんが掲げた改革を断行し、護送船団の社会構造を廃して自己責任の社会を実現しようとしたのは小沢さんならぬ、小泉純一郎元総理、その人であった」と評している。小沢の政治手法については、「極論すれば、小沢氏の政治行動の基準は、わずか二枚のカードに集約される、と。それは『政局カード』と『理念カード』である。具体的にいえば、『政局カード』とは持論である政権交代という錦の御旗を立てることであり、『理念カード』とは安全保障を中心にした政策構想である。小沢氏というと政治的駆け引きに長けているように見えるが、決してそんなことはない。むしろやり方はシンプルだ。自民党を離党し、細川政権の樹立から今日まで、手の内のカードはこの二枚を駆使することに尽きる。ある時は『政局カード』を振りかざし、それが手詰まりになると見るや、今度は『理念カード』を切る。この繰り返しである」と評している。
また、小池が自由党を離党して保守党に参加し、小沢と決別した理由については、「ここで連立政権を離れて野党になれば、小沢氏の『理念カード』によって、政策の先鋭化路線に再び拍車がかかることは想像できる。一方で、経済企画庁の政務次官の仕事を中途半端に投げ出すことには躊躇した」「少々心細くもあったが、実は『政局』と『理念』の二枚のカードに振り回されることにも、ほとほと疲れていた。」「かつて小沢さんは、自由党時代に取り組んだはずの国旗・国歌法案について、自民党との連立政権から離脱するなり、180度転換し、『反対』に回った。国旗・国歌法案は国家のあり方を問う重要な法案だ。政治の駆け引きで譲っていい話ではない。同じく外国人地方参政権の法案についても自由党は反対だったはずだが、公明党の取り込みという目的のために、『賛成』へと転じたことがある。国家の根幹を揺るがすような重要な政策まで政局運営の“手段”にしてしまうことに私は賛成できない。これが私が小沢代表と政治行動を分かとうと決意する決定打となった」と説明している。一方で、自由党の参議院議員だった平野貞夫は「保守党へ移ろうとする小池さんを引き留めるため、僕は大量のパーティ券の面倒を見たりもしました。最後は、小沢さんに説得役を任せ、“次の総選挙では、比例近畿ブロック1位を約束する”と直接伝えてもらった。すると、彼女から“自由党がそこで議席を取れると思いますか?”と反論された。我々にとって、最大の屈辱の言葉でした。政治的な信念や理念があるわけではないが、彼女は機を見るに敏な才能の持ち主です」と、自由党では自分の当選が見込めないと小池自身が考えていたことが離党の原因だったと証言している。
2012年には、作家の大下英治によるインタビューで、「自由党の時に広報戦略を担当していた時の面白い資料が出てきたんです。『小沢一郎が永田町で嫌われるわけ』というテレビCMの、私が作った絵コンテ。『先見性がある、リーダーシップがある、決断力がある、正論を言う、実行する、先送りしない、本音を言う、役人に使われない。政策を重視する……』と続くんですが、当時は小沢さんの半面しか知らなかったから、今から考えるといくつか全く違うところもある」「政策はあるけれども、それ以上に政局が第一なんじゃないかと。今回の新党(引用者注:国民の生活が第一)でつくづく感じましたね」「小沢さんは政局を目的化しすぎ。政権を取った時、言っていた政策と行動があまりにも違う」「小沢さんは細川内閣で2大政党制による政権交代可能な政治制度を作ると言って小選挙区制を導入した。小選挙区制度では新党を作るのは不利だと一番分かっているのが小沢さんなのに、民主党を離党して4回目の新党を作った」と述べた。
週刊朝日による2012年のインタビューでは、「小沢さんを取り巻く人が抱く感情の変遷には、3段階ある。第1段階は、小沢さんを恐れ多く思う。私も『日本を変えるのは、そんじょそこらの人にはできないが、小沢さんならできる』と思っていた。第2段階は『すごい』と『えっ?』の間を行ったり来たりする。第3段階は『enough(もう十分)』と言って去っていく。新党についていったのは第1、第2段階の人。参加しなかったのは第3段階の人でしょう」と述べている。

辺野古移設案に関する非公式約束
普天間飛行場の辺野古への移設案に関して、2007年に小池が防衛大臣在任中に、いわば空約束を沖縄県知事に非公式に与えていた事が記されたアメリカの「秘」(confidential)扱いの公電を、ウィキリークスが暴露したと報じられる。
末尾に「SCHIEFFER」と記された公電は、在沖縄総領事ケビン・メアが2007年11月2日に小池と昼食を共にした際の内容を伝えている(これに先立つ8月に小池は防衛相を辞任している)。2006年に日米で合意した移設案に関して、沖縄県知事仲井真弘多は滑走路を少しでも沖合へと修正するよう求めていた。ウィキリークスによると、小池は、環境影響評価後を条件に、政府が滑走路を50メートル沖合に移すことを同意するとの「非公式な『約束』」を知事に与えていたことをメアに認めたとされる。メアは小池に、滑走路を移動する科学的根拠が環境影響評価により与えられなかった場合にどうするのか、を尋ねた。これに対し、2009年までには別の政権になっており、我々が知事に現時点までに何を約束したかが問題になることはない、と小池は答えたという。ウィキリークスによると、公電は、日本の内閣がこのような非公式な示唆を沖縄県知事に続ける事への懸念、また小池によりそのような非公式な約束が為されたとの噂をアメリカ側が事前に聞いていた事を記しているとされる。
小池は約束を与えた事を否定し、「その場に総領事が来たという記憶もないし、必然性もない」と主張している。

沖縄メディア
2013年3月に「沖縄の先生(=自民党議員)方が何と戦っているかというと、沖縄のメディアなんですよ。今日はこちらに地元メディアもいると思うが、しかしながら、あれと戦って今回のご当選をされてきたということは、むしろ沖縄のメディアの言っていることが本当に県民をすべて代表しているとは、私ははっきり言って思いません。これからも堂々と地元と国会議員としての役割を果たして頂けるように後押しをさせていただきたい」と党国防部会で述べた。

水俣病問題
水俣病に関して、被害者に保障すべしという最高裁の判断を無視し、「水俣病問題に係る懇談会」を設置。学識者による認定の基準値を批判、最高裁から異例の談話を発表された。。

「女性は子供を産む機械」発言への批判
女性を「子供を産む機械」に例えた厚生労働大臣柳澤伯夫の発言に対し、2007年2月4日に出演したテレビ番組で「柳澤さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも、日本における男性の、女性に対する見方は遅れてるんじゃないか」と批判した。

外国人参政権
2010年1月22日の衆議院予算委員会において外国人参政権について質問し、赤松広隆農林水産大臣の「外国人参政権は民団への公約」という発言について質し、さらに亀井静香金融担当大臣から「私の所属しております国民新党は付与することについては反対でありますし、私としても反対であります」との答弁を引き出した。なお、小池本人は保守党在籍当時の2000年11月に、同じ衆議院の特別委員会で法案提案者の一人として「税金を払っている在日の方々がそれに対して意見を、また参政権という形で、選挙という形で意見を述べるのは、これは当然ではないかというような意見もある」「在日の皆さま方のことを考えると同時に、日本そのものを考えるという大変大きなモメンタムである」と発言している(一方で提案説明の中で「やはり国民の声の中では幾つかの問題提起もされている」「地方の政治と国政とは実は非常に密接に関係してくる」「(南北朝鮮の民団と総連という関係が敵対して)一本化されていないということに一抹の不安を覚える」「国籍を取りやすくするということも、この法案とはまた別にその選択肢も十分ある」と導入に慎重とも受け止められる意見もしている。ただし、「国籍取得をより簡便にするということをまず考えなければならない」として、国政選挙権の行使も可能となる帰化に積極的である)[74]。なお、小池は外国人参政権に関する過去の発言をめぐる報道に関して2010年7月、日刊ゲンダイを名誉毀損で東京地裁に提訴し、勝訴した。

その他
2007年7月26日、青森県弘前市で行なわれた第21回参議院議員通常選挙の比例区に立候補した候補者の応援演説において、1995年の阪神・淡路大震災における救援活動について「アメリカが支援に神戸港に入ろうとしても、港湾組合が厳しくてなかなか着岸できなかった」と発言。これに対して港湾労組協議会は「拒否した事実はない」と否定している。小池側は「非核証明がない限り入港できないという、非核神戸方式を念頭に置いた発言」としている。
2016年東京都知事選挙に立候補する直前の2016年7月8日に日本外国特派員協会で実施された記者会見で、ジャーナリストの江川紹子は、小池が過去に在日特権を許さない市民の会の関連団体に招かれて講演をおこなったことがあると述べた。小池は、「いろんな講演会に招かれることはしばしばございます。しかし私は在特会という、最近よく出ておりますけど、それについてはよく存じておりません。また、私を招いてくれた会は、こことどういう関係にあるか知り得なかったということでございます。よって、その認識はないということです」と返答した。
2016年11月7日掲載の日経DUALのインタビューで、駒崎弘樹(認定NPO法人フローレンス代表)に国会議員時代の「親学」との関わりについて質問された。小池は、「一度だけ誘われて講演を聴きに行ったことはありますが、ちょっと私の考えとは方向性が違うと考えて、以降は何も関わっていません。それだけなんです。育休の延長プランのキャッチフレーズになった『3年間抱っこし放題』にも違和感を抱いていました」と関わりを否定している。

所属団体・議員連盟
日本会議国会議員懇談会
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
自民党国際人材議員連盟(会長)
自由民主党資源・エネルギー戦略調査会(顧問)
自由民主党無電柱化小委員会(委員長)
自由民主党税制調査会(副会長)
自由民主党環境・温暖化対策調査会(顧問)
自由民主党安全保障調査会(顧問)
自由民主党観光立国調査会(顧問)
自民党どうぶつ愛護議員連盟(会長)
日本会議国会議員懇談会(2015年時点で副会長)
北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(顧問)
国際連帯税創設を求める議員連盟(副会長)
日華議員懇談会
公益財団法人日本国際フォーラム(評議員[89]、政策委員)
衆議院日仏友好議員連盟(副会長)
シリア難民支援議員連盟(会長)
日カザフスタン友好議員連盟[
無電柱化推進議員連盟(会長代理)
FCV(燃料電池自動車)を中心とした水素社会実現を促進する研究会(会長)

年譜
1971年(昭和46年) - 甲南女子高等学校卒業。関西学院大学社会学部に入学(のちに中退)。
1976年(昭和51年) - カイロ大学文学部社会学科卒業
1978年(昭和53年) - 日本テレビ『竹村健一の世相講談』キャスターに就任。
1985年(昭和60年) 3月 - 日本テレビ『竹村健一の世相講談』終了とともにキャスターを降板。
1985年(昭和60年) - テレビ東京『マネー情報』キャスターに就任。
1988年 (昭和63年) - テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターに就任。
1992年(平成4年)7月 - 参議院議員に初当選(日本新党公認・比例区)。
1993年(平成5年)
7月 - 衆議院議員に初当選(日本新党公認・旧兵庫2区)。
8月12日 - 総務政務次官に就任。
1994年(平成6年)
4月28日 - 総務政務次官を退任。
12月10日 - 日本新党解党、新進党結成に参加。
1996年(平成8年)10月 - 衆議院議員に再選(新進党公認・兵庫6区)。
1997年(平成9年)12月 - 新進党解党。
1998年(平成10年)1月 - 自由党結成に参加。
1999年(平成11年)10月5日 - 経済企画総括政務次官に就任。
2000年(平成12年)
4月 - 自由党離党、保守党結党に参加。
4月5日 - 経済企画総括政務次官に再任。
7月4日 - 経済企画総括政務次官を退任。
2000年(平成12年)6月 - 衆議院議員3選(保守党公認・兵庫6区)。
2002年(平成14年)12月 - 保守党解党、自由民主党に入党。
2003年(平成15年)
9月22日 - 環境大臣に就任。
11月 - 衆議院議員4選(自由民主党公認・比例近畿ブロック)。
2003年(平成15年)11月19日 - 環境大臣に再任。
2004年(平成16年)9月27日 - 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。
2005年(平成17年)
9月 - 衆議院議員5選(自由民主党公認・東京10区)。
9月21日 - 環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)に再任。
2006年(平成18年)9月26日 - 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任。
2007年(平成19年)
7月4日 - 防衛大臣に就任。
8月28日 - 防衛大臣を退任。
2008年(平成20年)9月 - 自由民主党総裁選挙に立候補。麻生太郎、与謝野馨に次ぐ得票数3位で落選。
2009年(平成21年)
8月 - 衆議院議員6選(自由民主党公認・比例東京ブロック)。
10月 - 自由民主党広報本部長に就任。
2010年(平成22年)9月 - 自由民主党総務会長に就任。
2011年(平成23年)9月 - 自由民主党総務会長を退任。
2012年(平成24年)12月 - 衆議院議員7選(自由民主党公認・東京10区)、自由民主党広報本部長に就任。
2013年(平成25年)
4月 - ルノー社外取締役に就任。
6月 - 日本ウエイトリフティング協会の新会長に選任(女性初)。
2014年(平成26年)12月 - 衆議院議員8選(自由民主党公認・東京10区)。
2016年(平成28年)
7月 - 東京都知事選挙に大臣経験がある初の女性国会議員として立候補し当選。立候補に伴い衆議院議員を自動失職。
8月 - 東京都知事に就任。
9月 - 日本ウエイトリフティング協会の会長を辞任。

著作
単著
1982年1月 『振り袖、ピラミッドを登る』 講談社
1983年1月 『3日でおぼえるアラビア語』 学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月
1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』 太陽企画出版
1994年6月 『永田町ブロードキャスター』 朝日新聞社
週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
2007年4月 『小池式コンセプト・ノート プロジェクトは「大義と共感」で決まる!』 ビジネス社
2007年10月 『女子の本懐 ~市ヶ谷の55日~』 文春新書
2008年10月 『もったいない日本』 主婦と生活社
2009年7月 『ふろしきのココロ』 小学館
2009年10月 『議員と官僚は使いよう』 小学館101新書
2011年6月 『発電する家「エコだハウス」入門』 プレジデント社
2014年9月 『自宅で親を看取る 肺がんの母は一服くゆらせ旅立った』 幻冬舎

共著
1995年12月 パラダイム・ファクトリー著『日本破局のシナリオ 待ったなし、日本再生構想』 新講社
2001年8月 相澤英之ほか編『一問一答金庫株解禁等に伴う商法改正』 商事法務研究会
共編集。他の編集者:長勢甚遠、谷口隆義、金子一義、根本匠、漆原良夫。
2001年12月 『対論:テロは日本を変えたか』 広済堂出版
古森義久との共著。
2002年11月 山本一太監修『私が総理になったなら 若き日本のリーダーたち』 角川書店
浅尾慶一郎、安倍晋三、荒井広幸、石破茂、石原伸晃、枝野幸男、大村秀章、岡田克也、小池百合子、河野太郎ほか29名による共著。
2005年4月 環境ビジネスウィメン懇談会編著『環境ビジネスウィメン』 日経BP社
小池百合子、染谷ゆみ、善養寺幸子、堤恵美子、キャシー松井、薗田綾子、安井悦子、鈴木敦子、枝廣淳子、崎田裕子、谷みどりによる共編著。
2008年7月 TPL著『東京WOMEN大作戦』 小学館
小池百合子、猪口邦子、佐藤ゆかりによる共著。
2009年7月 『南地中海の新星リビア 高まる日本への期待』 同友館
畑中美樹との共著。
2013年12月 『異端のススメ』 宝島社
林修との共著。
2015年7月 『無電柱革命』 PHP新書
松原隆一郎との共著。

対談等
1992年10月 牟田口義郎著『カイロ 世界の都市の物語 10』 文藝春秋
「ケイオスティック・カイロ」を寄稿。
1993年9月 佐高信著『日本人の死角』 徳間書店
対談「私は政治改革のモルモット」を収録。
1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』 ダイヤモンド社
第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿。
2001年2月 佐和隆光、浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』 ダイヤモンド社
鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録。

論文
CiNii収録論文 国立情報学研究所

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