有吉も驚愕“渋谷一うざい男”が話題沸騰、伝説のギャル男が渋谷の裏側を初めて語った
2013.11.02 00:50
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10月12日に休刊となった男性ファッション雑誌「men's egg」で元祖ギャル男、カリスマ・スーパー高校生として一時代を築いた“ピロム”こと植竹拓氏(35)。11月1日放送のTBS系「有吉ジャポン」では30分の渋谷カルチャーの特集が組まれ、植竹氏自ら「渋谷の今」を語った。モデルプレスでは、そんな彼にインタビューを行い、番組出演の感想やこれまでの半生、彼の考える「渋谷の今」に迫った。
“渋谷のサムライ”ピロムとは
1997年より読者モデルとして活動を開始。渋谷系ファッション誌「egg」「men’s egg」を創刊号から支える元祖ギャル男カリスマ、スーパー高校生としてその名を馳せた。「men’s egg」引退後はDJ、アパレル社長として成り上がりを見せるが、その後会社の業績不振で不渡りを出すなど堕落と激動の人生を送る。2012年10月「men’s egg」休刊。このままでは渋谷ギャル男カルチャーの灯りが消えてしまうと危惧し、渋谷の侍として自身の生き様を次世代に伝えていこうと、渋谷カルチャーを様々な形で発信。11月2日、17年の半生をつづった初の自伝本「渋谷(ピロム)と呼ばれた男~ギャル男の終焉~」を発売する。【インタビュー】
― 「有吉ジャポン」に出演した感想を教えてください。
植竹:約15年ぶりのTVだったんですけど、緊張せずに楽しむことができました。実は、こう言われたらあぁ言うって練習を、事務所でシミュレーションしたんですけど、そのときの方が緊張してました(笑)。
― オンエアでは、有吉弘行さんを相手にボケを連発する場面もありましたが、あれはアドリブですか?
植竹:はい、それで何度話の腰を折ったことか…。そのせいで、太田(光代)さんには、常に「何だこいつ」って目で見られてました。番組中にふざけて「しんずれいします」ってギャグを何度も言ってたら、有吉さんに「うざい」「うざい」って言われ続けましたね。でも最後には、有吉さんも「しんずれいします」ってノッてきてくれたので、結果的には自分のペースに飲み込むことができたかなと思っています!
― 渋谷のカルチャーを語る場面では、一変して表情が真剣でしたね。
植竹:そうですね、そこは真面目に伝えたかったことなので。まぁ、有吉さんには「急に真面目か!」ってツッコミまれてしまいましたけど(笑)。
― 番組では渋谷のカルチャーやギャル男について熱く語る姿が印象的だったんですが、「men's egg」の休刊もあり、世間では「ギャル男は絶滅だ」という声も多く挙がっています。
植竹:そういう声もあるとは思うんですけど、俺の中では全然絶滅したとは思ってないんです。ただ細分化されて、オラオラ系、BITTER系(=ビタ男)と呼ばれるようになっただけで、そいつらも元々はギャル男。だから、完全に絶滅することはなく、形を変えて残っていくと思っています。ただ、カルチャーとしては確実に弱くなっていますね。
― 今渋谷には「イケてる人がいない」という声もよく耳にしますが。
植竹:本当にいないっす。ギラギラしてた時代の生き残りみたいなヤツだけで、こいつ面白そうだなってヤツがいないんです。
― そうなんですね。最近では、ギャル誌が全体的にナチュラル化するなど、ギャル男だけでなくギャルにも改革が起こっていますが、それに対する植竹さんの意見を教えてください。
植竹:若いギャルの間にカリスマがいないってことだと思います。10代のカリスマがいないから、20代中盤の子がカリスマになる。昔ギャルでも、20代になると自然と落ち着いていく子が多いですから、そこが目標になるとメイクもヘアもナチュラルになっていくんだと思います。
― 昔のように目立つタイプやパンチの効いたタイプのギャルやギャル男が減ったことにも、そういった現象が関係しているんでしょうか?
植竹:もちろんそれもあると思います。あとは、ネットやSNSの発達で自分に関するネガティブな情報が入ってくるようになったことが大きな要因じゃないかと考えています。検索したらすぐに色んな情報が出てくるし、ひどい言葉で叩かれていることもあると思うんです。それを気にして、意見を取り入れて全部汲み取っていくと、パンチがなくなっていく。出過ぎす、出なさ過ぎずって間をとっていくと、ナチュラルになっていく。今の時代、パンチがあったって、叩かれるだけで得することがないんですもん。だから、ナチュラルにならざるを得なかった、それがギャル誌がナチュラル化した理由だと思います。
― カルチャーとして衰退させないために、何か考えている仕掛けはあるんですか?
植竹:自伝本(「渋谷(ピロム)と呼ばれた男~ギャル男の終焉~」)の出版もそのひとつです。本を出版して、こうやって俺がメディアに出させていただくことが、渋谷を活性化することに繋がっていくと思っています。でも、それだけじゃまだまだ弱い。今の渋谷には、「何かあるんじゃないか」ってドキドキ感がないんです。俺は埼玉県出身だから、ずっと渋谷に憧れがあったんですよ。今の子達がそういう風に思える街に戻って欲しいです。
― では、具体的にはどんなことが必要だと思いますか?
植竹:俺がスーパー高校生と呼ばれていた15年前の渋谷は、土日の昼から夕方にかけて歩行者天国だったんです。そこには、色んな雑誌が集まってスナップやって、私服を見せたい女の子が集まって来てっていう図式があって。そこでスナップされることがひとつのステータスだったし、そのおかげで街は賑わっていましたね。でも今はそれがない。服にしろ何にしろ、渋谷じゃなきゃってものがないんですよ。私服を見せる場所っていうのが、ブログとかSNSになってるんで、もう一度大勢の人に見られている優越感を与えられる街になって欲しいです。
― なるほど!長年渋谷で生き続けてきた植竹さんだからこその分析ですね。植竹さん自身は、今後もギャル男を貫いていくんですか?
植竹:もちろん!生涯、ギャル男!死ぬまでずっとです。
モデル、DJ、社長…様々な顔を持つ植竹拓氏の半生に迫る
― ここからは、植竹さんの半生に迫っていきたいと思います。スーパー高校生として一世を風靡し、その後はDJ、アパレル会社企業と怒涛の人生を送っている植竹さんですが、渋谷で過ごした15年間を振り返ってみていかがですか?植竹:15年って感じがしなくて、まだ5、6年しか経っていない感覚です。時間が止まっているってわけじゃないけど、毎日がイベントのようで。
― 植竹さんといえば、ナンパの成功率を上げるために雑誌に出ていたなんて逸話がありますが…。
植竹:はい、当時はナンパに命かけてました(笑)。でも、雑誌に載り始めてからは、有名になったことで逆にナンパができなくなったんですよ…。
― それはなぜですか?
植竹:顔と名前が知られたことで、1人とヤッたら、100人とヤッたみたいな噂が立っちゃうようになったんです。ナンパの成功率を上げるために頑張ったのに、俺自身は身動き取れなくなって本末転倒です(笑)。結局一番得したのは、俺の地元の友だちですよ。「拓に会わせてやるよ」って言ってナンパ成功してますから。何百人って成功させたんじゃないですか?
― 植竹さんのナンパ成功率は上がらなかったんですか?
植竹:可愛い子に声を掛けてもらうことは多くなりましたよ。でも、その子たち全員に手を出せたかって言うと無理。誰と繋がっているかってことを考えながら手を出してました。
― 慎重派ですね。実際、経験人数は何人くらいなんですか?
植竹:3、4桁いってそうってイメージがあると思うんですけど、実際は3桁いってないです(笑)。
会社倒産からの復活
― そうなんですね(笑)。話は変わって、モデル、DJを経て、2005年にはアパレル系有限会社「ワントップ」を設立していますが、起業に踏み切った理由を教えてください。植竹:当時は、モデルで有名になってブランド始めたっていうと年商1億、2億っていうのが当たり前に起こる時代だったんですよ。「men's egg」自体も一番売れてた時期だったし、読者モデルが、ブランドを立ち上げるブームも起きてたんです。それで俺も、「絶対成功する」ってとにかく強気だったんで、そのブームに乗りました。でも、そこに大手が参入してきて、あっという間に市場が食い荒らされました。
― 具体的にはどのようなことが起こったんですか?
植竹:オリジナル商品をパクられて値段は半額、しかも俺らより早くリリースするっていう。気がつけば、価格破壊が起こっていました。結果的には、2009年に売り上げ70%ダウンで社員半分解雇、2010年にさらに落ちて、全員解雇、そこからは3年半くらい1人で、1000万円の不渡りを返済するために頑張りました。
― どうやって返済したんですか?
植竹:友人にも手助けしてもらいましたが、会社としては洋服の生産量を減らすという対策をとりました。それで、2011年頃にはやっと1000万円を返済し終えそうってところまで持ち直したんですが、今度は東日本大震災が起きてしまって…。仙台にあった店舗が被災したことや寄付をしたことでまた少し追い込まれてしまいました。
― そうだったんですね。当時、精神的に支えになってものは何だったんですか?
植竹:俺が苦しいっていう状況を知らずに付き合った彼女ですね。その彼女とは、今も付き合っています。当時は、本当に八方塞がりで、「先が見えないってこういうことを言うのか」って状況でした。従業員もいなくて社員は俺1人、会社名も「ワントップ」なんですけど、本当に「ワントップなっちまった!」って感じで(笑)。今だから笑い話にできますけど、あのときは顔面麻痺になって起きても寝ても地獄で死ぬかと思ってました。
― 壮絶ですね。人生で一番つらかったのはその頃ですか?
植竹:そうですね。ほかにも命の危機を感じたことはあったんですけど、どん底を見たのは2011年頃でした。
― 命の危機とは?
植竹:27歳くらいのときに、モデルの後輩が1人渋谷から飛んだんです。で、誰がケツを拭くんだよって話になって、俺が呼ばれて。「刺されるのと、渋谷から飛ぶのどっちがいい?」って聞かれて、「刺されるほう」って言ったんですよ。そしたら、「この部屋汚れるから今日はいいや。ただ、次会ったらめった刺しにするからな!」って言われて。こんなに足って震えるんだってくらい、震えてました。
― 想像するだけでも足が震えます…。後輩の尻ぬぐいをすることはよくあったんですか?
植竹:そうですね、その事件以来、渋谷で何かあったら俺のところに来るみたいな風潮になっちゃいました。終いには、「men's egg」の編集部員がやらかしたときにまで俺が呼び出されるっていう(笑)。そういうこともあって、「30歳の節目にアパレルに専念します」ってことでモデルとDJを引退しました。これでもう後輩のことは後輩でやってくれって。
― それが引退理由だったんですね!そういったことがあっても、渋谷を嫌いになることはなかったんですか?
植竹:そういう想いはあまりなかったですね。それにその頃には、すでに起業してましたから。俺が飛ぶって言ったら、会社は?社員は?ってなるから頑張ろうって。
― 植竹さんにとっては、渋谷は好き嫌いでは語ることのできない場所なんですね。これまで様々なことにチャレンジし道を開いてきた植竹さんから、夢を追いかける若者にメッセージをお願いします。
植竹:たとえ嫌なこと49%でも、いいこと51%なら続けた方がいい。1%でもいいことが多いなら、あとは自分の心が折れないように頑張るだけです。
― では、最後に今後の目標や野望を教えてください。
植竹:「men's egg」休刊のタイミングでたまたま自伝本を出版することになって、こうやってメディアに取り上げてもらうことができました。実は、「men's egg」休刊が発表されたときにも、俺の名前がYahoo!の急上昇ワードに入ったんです。本来なら今の看板モデルがなるはずなんですけど、そこで自分がなったってことは「men's egg」を背負って立つ運命なのかなって思いました。色んなところで自分の発言が取り上げてもらえて、こうやって注目を浴びたことで今は使命感に満ち溢れています。まだまだ渋谷を盛り上げるために頑張ります。
― ありがとうございました。
誰よりも渋谷を理解し、愛する植竹氏。その想いは言葉の端々から感じられた。「まだまだ渋谷ギャル男カルチャーを語りついでいきます」と宣言した彼が、今後渋谷にどんな刺激を与えてくれるのか期待が寄せられる。(モデルプレス)
■植竹拓(うえたけひろむ)プロフィール
生年月日:1978年8月20日
血液型:A型
出身地:埼玉県
身長:166cm・6頭身
ステータス:無類のラーメン好き
公式ブログ:http://ameblo.jp/peace-on-mars/
公式facebook:http://www.facebook.com/uetake.hiromu
公式Twitter:@HIROMU0820
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